隠者
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キリスト教文化圏中心に書かれており、世界的観点からの説明がされていないおそれがあります。(2023年2月)


雑多な内容を羅列した節があります。(2023年2月)
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ヒエロニムスはベツレヘム周辺で隠者として生涯を送った。研究を続ける彼を二人の天使が訪ねてきた図。バルトロメオ・カヴァロッツィ、17世紀初期

隠者(いんじゃ)とは、一般社会との関係を絶ち(隠遁)、生活する人のこと[1]。特にキリスト教仏教など多くの宗教宗教者、または宗教的背景をもった隠者が多数知られる。

キリスト教では、この言葉は宗教的信念、特に旧約聖書(つまり、40年間シンの荒野を放浪[2]して心境が変化したくだり(民数記第13章))に影響された砂漠の神学から隠遁生活を送った人々に使われる。

伝統的にキリスト教では隠遁生活[3]修道生活の先駆けとみなされている。聖ベネディクトの戒律の1は4種類の修道僧の中に隠者を数えている。カトリック修道会の隠者に加えて、カトリック教会の宗教法カノン603)では当該管区の司教の指示に従って隠者が奉献生活を送ることを認めている。同じことが米国聖公会を含む多くの聖公会でも認められている。聖公会のカノン法では自分の管区の司教に従い、司教の要求する準備計画に耐える者は生涯独身であることを誓う。彼らは隠者というよりむしろ独居者と言われる。めいめいの隠者が自分の管区の司教よりもむしろ別の司教を選んで付加的な心のよりどころとして、さらに必要ならば仲介人とする。

宗教的な文学でも世俗の文学でもしばしば「隠者」という言葉が人間不信者を含めて孤独な生活を送っているものをゆるく指して使われている。

近代口語的な用法では、「隠者 (hermit)」という言葉は一般社会から離れた生活を送っているもの(世捨て人)や、社会的行事に参加していないものを指して使われる。
西洋の「隠者」の語源

英語「hermit」、フランス語「Ermite」、ドイツ語「Eremit」、スペイン語「Ermitano」、ポルトガル語「Eremita」、イタリア語「Eremita」、ポーランド語「Eremita」などといったヨーロッパの隠者を表す言葉はラテン語「?r?m?ta」[4]に由来するがこれはギリシア語「?ρημ?τη?」(砂漠の)[5]のラテン語形である。さらに?ρημ?τη?は「砂漠」、「人里離れた」、「そして砂漠に住むもの」を表す?ρημο?[6]の派生語である。
キリスト教

古代にしろ現代にしろ、キリスト教徒の隠者生活は旧約聖書の砂漠の神学に根差している。したがってそれは生の全てを神への賛美と愛に捧げることであり、さらには祈りや懺悔を通じて、全人類への奉仕に捧げることである。隠者の使命を正しく理解する上で後者の点を見逃してはならない。というのもユダヤ・キリスト教の伝統では神は人間(個々人)を互いに関係しあうものとして創造している[7]。ということは孤独そのものはキリスト教徒の最終的な使命とはなりえない。孤独は特定の精神的目的を達成するためのお膳立てにすぎないのであり、この意味において人間一般の使命にかなうのである。
歴史
伝統

キリスト教では伝統的にエジプトにあらわれた最初の隠者はテーベのパウロ3世紀)とされ、したがって「初代隠者聖パウロ」と呼ばれる。彼の弟子エジプトのアントニオス(4世紀)はしばしば大アントニオスとも呼ばれ、おそらくかれの友人アレクサンドリアのアタナシオスによる伝記に書かれたごく初期のキリスト教隠者の中で最も有名である。エジプトの隠者主義に先行してシリアの独居生活者、いわゆる「聖約の子」(アラム語:bar q?y?m?)がいて、キリスト教徒として特別な訓練法を行った[8]中世にはカルメル会に所属する隠者が自分たちの起源はエリヤが始めたユダヤ人の隠者たちにさかのぼると主張した。

かつてのキリスト教徒の隠者は多くの場合「隠者の庵」と呼ばれる隔絶した小部屋に住んだ。庵は砂漠の中にあり、自然洞窟であったり、人工建物であったりした。精神的な助言や答申を得るため、彼らを訪ねてくるものは多かった。隠者たちの何人かはあまりに多くの弟子をとったために、物質的な意味では孤独ではなくなってしまった。

初期のキリスト教の砂漠の師父たちはを織ってパンと交換した。中世の隠者は町の中や街の周囲にもおり、おそらく門番や渡し守をして生計を立てた。

西方では中世から近代にかけて隠者的な修道生活も修道会の文脈で行われた。例えばカトリック教会ではカルトジオ会やカマドレーゼ会が修道院を庵の集まりとして整え、そこで修道僧が孤独に祈りや仕事をして過ごすようにして、共同で行う典礼は比較的簡単にのみ行ってあとは食事やレクリエーションを行う場合のみ時々集まるようにした。シトー会、厳律シトー会、カルメル会は性質上本質的に共同社会的であり、その会員は修道院での生活を何年も続けると隠遁生活への呼び声を感じて修道院の敷地内にある庵としての小屋に移動した。これは男女とも同じであった。他の形の修道生活の代わりとしての職業を選んだ隠者も多くいた。11世紀には、隠者の生活は救いへの合法で独立した脇道として認知された。11・12世紀の多くの隠者は聖者とみなされるようになった[9]
世捨て人

初期の文献から現代にいたるまで、「世捨て人(:anchorite)」という言葉はしばしば隠者(:hermit)の類義語として使われる。だが世捨て人の生活は、隠者の生活と似てはいるが、それから区別できる。中世において世捨て人は一般的な職業であった。世捨て人・女世捨て人たちはたいてい教会に対して建てられた小さなあばら家あるいは独居房である「錨効き」(あるいは「停泊」)で孤独に宗教的な生活を送った。停泊の扉は世捨て人が入居してから地区の司教が計画する特別な式典において煉瓦でおおわれることが多かった。世捨て人をミサを聞くことによって典礼に参加させるため、そして聖餐に与らせるために聖壇の近くに小さな窓を備えている教会が中世には存在した。もう一つの窓が通りか共同墓地に続いており、慈悲深い隣人が食料その他の生活必需品を届けてくれた。世捨て人の助言を求める客もその窓を使って彼・彼女に相談した。今日では独特な形式の職業としての世捨て人はほとんど聞かれない。
今日の生活
カトリック教会

今日のカトリック教会は以下のどちらかの生き方をするよう隠者に呼びかけている:

(a)(ベネディクト会、シトー会、厳律シトー会のような)修道会に所属しているか、(b)(カルトジオ会、カマドレーゼ会のような)修道会の支持を隠者として受けている 隠者として、しかし、どちらの場合も上位の宗教的権威に従っている

(カノン603)地域の司教の教会法の下で奉献隠者として

修道会のメンバーChurch of the hermitage "Our Lady the Garden Enclosed" in Warfhuizen, Netherlands

今日のカトリック教会では奉献生活の会がその会員で神に呼ばれたと感じて共同体での生活から隠遁生活に移るものの規則を定め、彼らの修道院長にそうするのを許可している。教会法の法典(1983年)には彼らに対する規定は特にない。彼らは規則の上では奉献生活の会の会員であり、それゆえに修道院長の管理下にある。

上述のように、カルトジオ会とカマドレーゼ会の修道士・修道女は修道院の文脈で本質的に隠者的なめいめいの生活の仕方をしている。つまり、こういった修道会の修道院は実際のところ個人ごとに持っている庵の集合体であり、修道士・修道女はそのめいめいの庵でほとんどの時間を一人ですごし、毎日の、そして毎週の祈りの時間にだけ集まるのである。

これも上述のことであるが、特に厳律シトー会のような、本質的に修道院的な修道会は、めいめいの修道士・修道女に、彼らがコミュニティーのなかでしかるべき習熟度に達したら修道院長・女修道院長の監督下で修道院の敷地内で隠遁生活を追求させる伝統を強調する。トマス・マートンはこうした生き方をとるトラピストの一人であった。
カノン法603条

最も初期の隠修ないし隠遁生活は修道会のメンバーとしてのそれに先立つものであった、というのも修道院や修道会は修道生活のの歴史の中でも後になって発展してきたものだからである。今日では最初に修道院で生活することなしに隠遁生活、つまり人里離れた奥地で暮らすか街中でも俗界から厳しく隔離された環境で暮らす生活を自分の天職と感じる敬虔なクリスチャンが増えている。隠者の職業は旧約聖書の砂漠の神学(つまり、心境の変化をもたらすことになる40日間の放浪)であることを念頭に置きつつ、都市の隠者にとっての砂漠とは心の中に存在する砂漠であり、神の場で身一つで生きていくケノーシスを通じて清められていると言われる。


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