障子(しょうじ)は、現在の和風建築では明かりを通すように木枠に紙、主に和紙を貼っているパネル状の建具を指し、建具としての機能上は一般に引き戸の形式となっている。元々はさえぎる道具の意味で[1]、現在のドア、戸、カーテン、ブラインド、衝立、屏風、襖までも含む。 現在、障子というと画像01のように桟に和紙が貼られ、緩やかな光の差し込むものを云う。しかし元々は、さえぎるもの、ふさぐものの意味で[1][2]、建具一般を指した[注 1]。障子の「障」にはさえぎるという意味、「子」とは小さな道具という意味がある。つまり障子とは文字の通りさえぎる道具のことである。 大陸伝来の障子も屏風も、寝殿の外壁に用いられた国産の蔀[3]も含めて、元々の言葉の意味は同じで、視線、風、光、寒さなどをさえぎるものである。例えば衝立は日本では障子と呼ぶが、中国では屏風である[4]。それが時代とともにそれぞれの言葉で呼ばれるものが変化していった。 奈良時代の障子については正倉院御物などに僅かに残るものの[5]、その当時の上層住宅の内部についてはほとんど史料が残っていない。平安時代後半、寝殿造の初期の時代においては、建物の内部に壁や間仕切りは少なく、柱だけの空間を帷(かたびら)類、つまりカーテンや、御簾(みす)と呼ばれる簾(すだれ)を用いて区切り、生活の場を作った[6]。御簾は今ならブラインドだが、それも含めてカーテン状の障子としておく。 その後の建具の発達により、次第に現在の襖やショウジ[注 2]に近いもので仕切られるようになる[7]。カーテン状の障子に対してパネル状の障子の発達である。現在のショウジの原型は12世紀に平清盛の六波羅泉殿の指図[8]に現れる明障子(アカリシヤウシ)との記載が初見であるが、それが現在の障子に近いものであるのかどうかは不明である。ただ、鎌倉時代の絵巻には蔀や舞良戸の内側に現在のショウジに近いものが建てられた姿が多く描かれるようになる。 しかし15?16世紀頃までは製材や工具の制約が大きく、現在のショウジや襖に相当するものも相当に骨太であり、特に引戸を嵌め込む敷居や鴨居の溝、樋の加工は大変で、そのため様々な試行錯誤が繰り返されてきた。現在の襖やショウジのようになるのは江戸時代以降である[9]。 画像04
概要
カーテン状の障子04:聖霊院の御簾
御簾
几帳05:東京国立博物館蔵「類聚雑要抄指図巻」より、几帳の絵
几帳(きちょう)とは布のカーテンである。帷(とばり)を何枚か横に縫い合わせる。ここでいう帷は絹の布であり、当然人手の機織であるので幅は着物の反物を想像すると判りやすい。決まっているので『類聚雑要抄』にも布の長さは書いてあるが、布幅の記載は無い[11]。
上から下まで全て縫うのではなく、中間は縫わずに布を押し開けばその隙間から向こう側が見えるようになっている。例えば『年中行事絵巻』巻3「闘鶏」では主人家族の男は寝殿東三間の御簾を巻き上げてあげて見物し、西の二間には御簾を下ろし、その内側に几帳が建てられている。そこを良く見ると主人の家族なのか女房達なのか、4人の女性が几帳の中程を開いて闘鶏を見物している[12]。
画像05が几帳で、持ち運び可能な台付きの低いカーテンである。その構造は土居(つちい)という四角い木の台に2本の丸柱を立て、横木を渡す。それが几帳の几である。それに帳、つまり帷を紐で吊す。夏は生絹?(すずし)?、冬は練絹を用いた[注 3]。
御簾の内側に立てるのは四尺几帳で、四尺とは土居(つちい)からの高さである。6尺の帷5幅を綴じあわす。表は朽木形文が多いがそれのみではない。裏と紐は平絹である[13]。三尺几帳は帷4幅、主人の御座の傍らなどに用いる。座っていれば高三尺で十分隠れる。松崎天神縁起には、こちらの画像のように、右上に奥方が寝そべって和歌を書いているシーンが描かれているが、その手前にあるのが三尺几帳である。侍女達はその几帳のこちら側に居る。(几帳も参照。)
壁代06:東京国立博物館蔵「類聚雑要抄指図巻」より、壁代の絵。