隗囂
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隗囂
後漢
西州大将軍
出生不詳
涼州天水郡成紀県
死去33年建武9年)
季孟
爵位朔寧王〔蜀〕
官位上将軍〔推戴〕→右将軍〔更始〕→御史大夫〔更始〕→西州上将軍〔自称、推戴〕→西州大将軍〔後漢〕 
主君王莽→〔独立勢力〕→更始帝→〔独立勢力〕→光武帝公孫述
兄弟叔父:隗崔、兄:隗義
子隗恂、隗純
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隗 囂(かい ごう、? - 33年)は、中国代から後漢時代初期の武将・政治家。は季孟。涼州天水郡成紀県(現在の甘粛省天水市秦安県)の人。叔父は隗崔。兄は隗義。子は隗恂・隗純。隴右[1]に割拠した新末後漢初の群雄の一人で、蜀の公孫述と共に、光武帝(劉秀)の統一事業に立ちはだかった人物である。
事跡
初期の挙兵

若年時代は州郡で官吏を務めていたが、王莽の下で国師を務めた劉?に登用され、その属官となっている。地皇4年(23年)、南陽郡で劉?が宛を包囲した時に、王莽が赦令を下す使者72人の一人として長安を出発した。劉?が叛乱の露呈によって自殺した後、隗囂は郷里に帰った。更始帝(劉玄)が即位し、王莽が敗北したと聞いて、叔父の隗崔・兄の隗義が、上?の楊広や冀県周宗と共謀してこれに呼応しようとした。隗囂は「兵は凶事」として諫止したが、隗崔らは聞き入れず、平襄を攻撃し、鎮戎の大尹(新制における天水郡の太守)を討ち取っている。その後、隗囂の声望が高く、また経書を良く読むことから、隗崔と楊広はこれを上将軍として推戴した。隗囂は辞退を繰り返した後に、遂にこれを受諾している。

頭領となった隗囂は、扶風平陵県出身の方望軍師として招聘した。方望は、漢室復興の大義を示すため「神道設教」を行うことを進言する。隗囂もこれを容れて邑に東面して廟を建て、高祖(劉邦)・太宗(文帝)・世宗(武帝)を祀るなどしている。これに伴い、隗囂は元号を漢復に改め、漢復元年(23年)7月付で漢室復興の檄を各郡国に発した。

そして隗囂は、10万の大軍をもって周辺地域へ出撃し、雍州牧陳慶・安定大尹王向(王莽の従弟で王譚の子)を攻め滅ぼした。同年9月に王莽が滅亡した頃には、隴西・武都・金城・武威・張掖・酒泉・敦煌の各郡が、隗囂の支配地域となっている。
更始政権での活動新滅亡後の勢力図

漢復2年(24年)、長安の更始帝から隗囂・隗崔・隗義を招聘する使者が派遣され、方望の諫止を聞かず、隗囂らは長安へ向かった。このため方望は、手紙を残して隗囂から去った。長安入りした隗囂は、更始帝から右将軍に任命された。同年冬、赤眉軍関中に入ると隗崔と隗義が反逆して故郷に戻ろうとしたが、隗囂は自ら更始帝にこのことを告げ、隗崔と隗義は誅殺される。一方、隗囂は更始帝からその忠義を賞賛され、御史大夫に任命された。

更始3年(25年)、赤眉軍が西へ向けて進軍し、光武帝が即位したと聞いた隗囂は、政事を劉氏の元老格である国三老劉良に委ねるよう更始帝に進言したが、聞き入れられなかった。まもなく、衛尉大将軍張?らが、更始帝を脅かして荊州に戻ろうと画策すると、隗囂もこの謀議に加わる。しかし、事が露見し、隗囂は更始帝の命を受けた執金吾ケ曄に屋敷を囲まれたが、辛うじて長安を脱出した。

天水へ帰還すると、隗囂は西州上将軍を自称し、同年9月に更始政権が滅亡すると、三輔の多くの士大夫は隗囂を頼って来た。すなわち隗囂の下には、谷恭・范逡・王元王遵などの多くの名士が参集し、隗囂の声望は山東にまで聞こえたという。また、河西[2]に割拠していた竇融らにも将軍印を授与し、これを傘下に加えた。
後漢での破格の待遇

建武2年(26年)、漢の大司徒ケ禹の部将の馮?がケ禹に反逆し、天水へ向ったが、隗囂はこれを高平(安定郡)で撃破した。これによりケ禹は、隗囂に符節を与え、西州大将軍に任命し、涼州朔方郡の事務について専権を授与した。長安を占領していた赤眉軍が西進してくると、隗囂は部将の楊広を派遣してこれを撃破している。

建武3年(27年)、隗囂が光武帝に書簡を奉呈したところ、光武帝は、隗囂を字で呼び、対等の国君に対する儀礼をもって応じるという破格の厚遇で、これに報いた。同年、蜀の公孫述の支援を受けた呂鮪が三輔へ進攻してくると、隗囂は征西大将軍馮異と協力して呂鮪を撃破し、光武帝から更なる礼遇が加えられている。


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