『随園食単』(ずいえんしょくたん)は、中国清代の袁枚が晩年の1792年(乾隆57年)に刊行した料理書[1]。清代当時の中華料理のレシピと料理人の心得が書かれている。いわゆる美食趣味・ガストロノミーの書物[2]。 袁枚は文人・詩人としても著名な人物である。そのため、経書や古籍からの引用、袁枚の詩論「性霊説」や科挙に関する記述もある[3]。 レシピの数々からは、当時の人々の食べ物への愛が窺える。例えば、江鮮単に出てくる「仮蟹」(チアーシエ、かにもどき[4])という料理は、その名の通り蟹(上海蟹)の味を再現した料理であり、たとえ蟹が食べられないときでも蟹を食べたいという蟹への愛が窺える[5]。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。隨園食單 清代の夏曽伝
内容
自序
須知単 - 料理人の予備知識
戒単 - 料理人の警戒事項
海鮮単 - 魚以外の海産物
江鮮単 - 川魚
特牲単 - 豚肉
雑牲単 - 豚・鳥以外の獣肉
羽族単 - 鳥肉
水族有鱗単 - 鱗のある海産魚
水族無鱗単 - 鱗のない海産魚
雑素菜単 - 穀物・野菜などの精進料理
小菜単 - あしらい物
点心単 - 間食
飯粥単 - 飯と粥
茶酒単 - 茶と酒 [6]
受容
清末の袁祖志
(袁枚の孫)は、著書の『随園瑣記』で祖父の袁枚や本書について語っている[8]。英語圏では、1901年のジャイルズの著作『中国文学史(英語版)』などで紹介・抄訳されており、袁枚の代表作として知られていた[9]。2013年には、インターネット上で英訳プロジェクトが立ち上げられ、2018年に書籍化された(en:Suiyuan Shidan#Bilingual translation)[10][11]。
本書はフランスのサヴァラン『美味礼讃』と肩を並べるとされる[12]。
日本(中国語版)』が受容されていたが、『随園食単』の受容状況は判然としない[12]。例えば江戸後期の柏木如亭は、性霊説の受容者であると同時に袁枚と同様の食通としても知られるが、その如亭でさえも本書に言及していない[13]。ただし、如亭没後の1841年に、本書を収録する書物『随園三十種』が清から輸入された記録がある[13]。
明治時代には、木原章六と陽其二がそれぞれ最初期の訳を作った[14]。また宮内省の料理人石井治兵衛がレシピ集で度々引用した[12]。大正時代には、日比谷公園前にあった中華料理店「陶陶亭」刊行のレシピ集のもとになった[12]。昭和初期には、食通として知られる大谷光瑞の著作『食』に引用されたり、料理雑誌『料理の友』編集長の竹田胤久によって簡便な訳が作られたり、陸軍糧秣本廠・糧友会(『軍隊調理法』で知られる)から丸本彰造編『支那料理の研究・その料理法と随園食単』が刊行されたりした[12]。戦後の1955年には、食糧学校講師の山田政平によって簡便な訳が作られた[12]。