作家の峰隆一郎とは異なります。
隆 慶一郎
(りゅう けいいちろう)
シナリオ作家協会『シナリオ』第16巻第10号(1960)より
ペンネーム池田 一朗 (脚本家)
隆 慶一郎 (小説家)
誕生池田 一朗 (いけだ いちろう)
(1923-09-30) 1923年9月30日
日本 東京市赤坂区
死没 (1989-11-04) 1989年11月4日(66歳没)
日本 東京都新宿区(東京医科大学病院)[1]
職業脚本家・小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴東京大学文学部仏文科
主な受賞歴1959年 シナリオ作家協会賞
1989年 第2回柴田錬三郎賞
1990年 日本映画プロデューサー協会賞特別賞
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隆 慶一郎(りゅう けいいちろう、1923年〈大正12年〉9月30日[2] - 1989年〈平成元年〉11月4日)は、日本の脚本家、小説家(時代小説作家)。本名は池田 一朗(いけだ いちろう)。本名で脚本、隆慶一郎のペンネームで小説を執筆していた。
東京市赤坂区生まれ[2]。旧制同志社中学、第三高等学校を経て、東京大学文学部仏文科卒。 戦時中は学徒出陣で出征、陸軍士官として中国大陸を転戦した。この時期に陣中に持って行った『葉隠』が、作家として『死ぬことと見つけたり』を書くきっかけとなった。終戦後、復学して1948年 東京大学卒業、大学時代に師事していた小林秀雄が参画していた創元社(のちの東京創元社)に入社する。短期だが大学講師でも勤務した。1950年頃、立教大学講師、中央大学助教授としてフランス語を、1959年まで教えていた。 1957年、脚本家としての活動を開始する。当初は『陽のあたる坂道』など日活の映画を中心に脚本を手がける。脚本家では、本名の池田一朗で活動しており、隆慶一郎を名乗って活動したのは、晩年の作家活動期となった約5年間だけである。1957年に脚本家としての活動を始めて以降、20世紀後半の日本のテレビ・大衆向けの文芸活動を広く長く支えた存在であった。 脚本家時代は映画、テレビドラマ問わず幅広い作品を手がけ、戦後日本のテレビドラマ史においても1970年代までを代表する脚本家の一人だった。脚本家としての代表作は映画『にあんちゃん』、テレビドラマ『鬼平犯科帳』。他にも『長崎犯科帳』・『破れ奉行』・『隠密奉行』・『大忠臣蔵』など多数あり、携わった作品の多くが、現在でもローカル局・時代劇専門チャンネルなどで繰り返し再放送されている。近藤照男プロダクションの近藤照男プロデューサーから頼まれ、1本だけだが『Gメン'82』の脚本を執筆した。東映の作である『Gメン'75』は、執筆はしていない。此方を執筆していたのは、池田雄一氏であった。 1984年、『週刊新潮』で小説家として第1作『吉原御免状』を連載する。隆慶一郎は、この時より名乗った筆名である。小説家時代は時代小説を中心に執筆した。代表作として『吉原御免状』、『影武者徳川家康』、『一夢庵風流記』、『捨て童子・松平忠輝』が挙げられる。長らく脚本家として活動しており、小説家生活に入ったのが還暦を過ぎてからと遅く、小説家としては実働わずか5年だった。また急逝したこともあって、未完の作品、構想だけが編集者に語られるなどして残った作品も少なくない[注釈 1]。ちなみに、還暦を過ぎるまで小説を手掛けなかった理由については、かつて師事した小林秀雄(1983年逝去)が存命の間は、とても怖くて小説は書けないと思っていたからという旨のことを語っている。 1986年、処女作『吉原御免状』が第95回直木賞候補作となり、結局は選に漏れたものの[注釈 2]、下馬評の段階では新聞や文芸系のマスコミなどから最有力候補の一角に挙げられたことをきっかけとして、時代小説で一大センセーションを巻き起こした。 1989年11月4日、肝硬変のため東京都新宿区の東京医科大学病院で死去[1]。同年、日本映画プロデューサー協会賞特別賞、『一夢庵風流記』で第2回柴田錬三郎賞受賞。 1996年に新潮社で『隆慶一郎全集』全6巻が刊行された。2009年9月より2010年7月にかけ同社で、新版『隆慶一郎全集』全19巻が刊行された。 2010年10月に『「歴史読本」編 隆慶一郎を読む』(新人物往来社)が上梓された。 隆の小説作品の特徴は、人物描写でもとりわけ男の生きざまや人情を書くのに非常に秀逸な点が第一に挙げられ、その内容も大衆文芸としての要所を確実に抑えつつも極めて良質な仕上がりを見せている。その一つの象徴的な作品が『一夢庵風流記』である。「傾奇者(かぶきもの)」という言葉と前田慶次郎利益という歴史上の人物が平成の世でメジャーになった背景を語る際には、この作品とこれを原作とした漫画化作品『花の慶次 ―雲のかなたに―』、そして『花の慶次』のキャラクター群を用いて展開された様々な関連商品の存在を抜きに語ることはできない。また、網野善彦らの中世近世史研究を大胆に取り入れ、それまで大衆文学ではあまり描かれなかった非農業民を中心とした庶民の歴史を描くことに成功している[注釈 3]。
来歴
作風・評価
逸話
隆は日本酒を愛飲しており、編集者の浦田憲治[4](日本経済新聞社)によれば夜中の午前2・3時まで飲んでいることがあったという。飲む場所としては浅草をこよなく愛した。隆慶一郎なる筆名そのものが、行きつけの居酒屋の女将さんがつけたものである。
医者からダイエットを命じられ、みずから考案した「三食鍋」なる野菜たっぷりの鍋料理を朝昼晩食べて減量に成功した。
『葉隠』は、元々戦地で読むつもりはなく、葉隠の岩波文庫版・3冊の中をくりぬき、ランボー、小林秀雄訳『地獄の季節』を入れ隠し持ち、持参したが、活字に飢えた挙句に『葉隠』を読み出したところ、面白さに魅了されてしまったという。
学生時代、常にダブダブのランニングシャツを着用しており、喧嘩の際に中に真綿を詰め、水をかぶることで防刃シャツ代わりにしていた。
高等学校時代、ボートレース観戦の挙句の乱闘騒ぎで、左目の上に傷が残っている。その時は旗の竹竿を得物にし、終わった時にはササラの状態になっていたという[5]。
司馬遼太郎原作の映画『城取り』に脚本家として関わった際、製作の石原プロが映画の完成を急いだため、まだ原作が日本経済新聞に連載中に撮影が行われることとなり、「原作もなく、なんの史料もなく」シナリオを書く破目になった。そのため、「当然出来は悪く、私は恥じた」。しかし、これがきっかけとなって前田慶次郎に関する史料を集めるようになり、それらを基に書き上げたのが『一夢庵風流記』だという。なお、映画『城取り』の主人公は「車藤三」で、司馬の原作『城をとる話』では車丹波がモデルであることが示唆されている。しかし隆は『一夢庵風流記』のあとがきで「主人公が前田慶次郎だった」としている。
晩年、入院中の隆を見舞った原哲夫が、隆のショートブーツからサバイバルナイフが出てきたのを見て「目を丸くした」という。
受賞
1959年 シナリオ作家協会賞 - 映画『にあんちゃん』
1986年 第95回直木賞候補 - 『吉原御免状』