隆三杉 太一
隆三杉(常盤山)太一(2019年5月18日撮影)
基礎情報
四股名金尾 隆 → 二子錦 隆 → 隆三杉 貴士 → 隆三杉 太一
本名金尾 隆
生年月日 (1961-03-01) 1961年3月1日(63歳)
出身神奈川県川崎市川崎区出身(出生地は兵庫県姫路市)
身長179cm
体重150kg
BMI46.82
所属部屋二子山部屋
得意技突っ張り、押し
成績
現在の番付引退
最高位西小結
生涯戦歴720勝753敗46休(118場所)
幕内戦歴472勝567敗26休(71場所)
優勝十両優勝1回
序二段優勝1回
データ
初土俵1976年3月場所
入幕1981年7月場所
引退1995年11月場所
引退後年寄・藤島 → 同・音羽山 → 同・常盤山 → 同・千賀ノ浦→同・常盤山
備考
金星1個(大乃国1個)
2020年11月26日現在■テンプレート ■プロジェクト 相撲
隆三杉 太一(たかみすぎ たかかつ、1961年3月1日 - )は、神奈川県川崎市川崎区出身(出生地は兵庫県姫路市)で二子山部屋に所属した元大相撲力士。本名は金尾 隆(かなお たかし)。最高位は西小結(1991年1月場所、1993年1月場所)。現役時代の体格は179 cm、150 kg。得意手は突っ張り、押し[1]。
現在は、年寄・常盤山であり、そして常盤山部屋の師匠である。 小学生の頃は空手で鳴らし、中学時代は柔道部に所属しつつも、相撲大会に駆り出されることがあった。 中学卒業直前に叔父の誘いで土俵の鬼と言われた第45代横綱初代若乃花の二子山部屋を見学に行き、当時、同部屋に所属していた幕下力士・高麗山の紹介で角界入りを決意した。 初土俵は、1976年3月場所[1]。同期生には、後の大関・北天佑や前頭筆頭・天ノ山(幕下付出)などがいた。 出世は速く、1981年1月場所にて19歳8ヵ月(新十両発表は11月場所終了後)で新十両昇進、同年7月場所で入幕を果たした。スピード十両、スピード入幕の反面、三役昇進は新入幕の場所から10年、58場所目[1] と史上1位のスロー出世だった。丸い体を利した押し相撲で、長く幕内を務め、愛嬌のある風貌で、“ドラえもん”[2] のニックネームで親しまれた[1]。 1995年11月場所限りで引退[1] 。 後は15代藤島から18代音羽山への名跡変更を経て15代常盤山を襲名した。11代二子山(大関・貴ノ花)が師匠を務めた二子山部屋の部屋付き親方となり、2004年6月に一代年寄・貴乃花が部屋を継承して貴乃花部屋と名称変更が行われた後も後進の指導に当たっていた。 2016年4月、師匠の19代千賀ノ浦(元関脇・舛田山)の定年まで2週間を切り、出羽海一門からの後継者を擁立出来ず、同一門内の他の部屋との合併も合意に至らず、消滅間際になった千賀ノ浦部屋の継承を要請された。「力士の居場所が無くなるのはかわいそうだ」との思いから、家族にも同意を得て5年後に名跡を元に戻す事を条件に名跡を交換し、20代千賀ノ浦を襲名、異例の一門外からの部屋継承に至った。この師匠交代に伴い、千賀ノ浦部屋は出羽海一門から貴乃花一門へ移った。 師匠になってから1年半で、17歳で幕下に上がった後長く足踏みしていた隆の勝を出稽古と猛稽古で鍛え上げ、無事関取に育て上げている。隆の勝は、自身が師匠になってから初の関取となった。 2018年6月、貴乃花が離脱したことにより、貴乃花一門は消滅した[3]。同年7月の相撲協会理事会で全ての親方は5つある一門のうちのいずれかに所属することが決定されたため、元々所属していた二所ノ関一門に加入を申請し、同年9月21日に認められた[4]。同年10月には退職する貴乃花より「全員が千賀ノ浦部屋への移籍を希望しています」との強い依頼を受け、貴乃花部屋の力士たちと裏方全員を千賀ノ浦部屋へ迎え入れた。同月4日、部屋のTwitterに「どの子も我が子」と自ら書いた一筆をアップし[5]、自らの弟子となった力士たちへの歓迎の意をあらわしている[6]。 同年11月場所では、旧貴乃花部屋から移籍したばかりの小結・貴景勝が幕内最高優勝を果たした。しかし冬の九州巡業中に同じく旧貴乃花部屋から移籍した貴ノ岩が付け人であった貴大将に対し暴行を加えていたことが明らかになり、同年12月に貴ノ岩は引責引退となった。
来歴
入門前
入門後
部屋付き親方時代
部屋持ち親方時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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