隆の里俊英
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隆の里 俊英

国技館辺に展示されている隆の里の手形
基礎情報
四股名隆の里 俊英
本名高谷 俊英
愛称おしん横綱[1][2]、ポパイ[1][2]、漢方薬博士
生年月日 (1952-09-29) 1952年9月29日[1]
没年月日 (2011-11-07) 2011年11月7日(59歳没)
出身青森県南津軽郡浪岡町
(現在の青森市
身長181cm
体重158kg
BMI48.23
所属部屋二子山部屋
得意技右四つ、寄り、吊り、上手投げ
成績
現在の番付引退
最高位第59代横綱
生涯戦歴693勝493敗80休(106場所)
幕内戦歴464勝313敗80休(58場所)
優勝幕内最高優勝4回
十両優勝1回
殊勲賞2回
敢闘賞5回
データ
初土俵1968年7月場所
入幕1975年5月場所
引退1986年1月場所
引退後鳴戸部屋師匠
備考
金星2個(輪島1個、北の湖1個)
2019年7月3日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

隆の里 俊英(たかのさと としひで、1952年(昭和27年)9月29日 - 2011年(平成23年)11月7日)は、青森県南津軽郡浪岡町(現・青森市)出身で二子山部屋所属の元大相撲力士、第59代横綱。本名は高谷 俊英(たかや としひで)。

現役時代は身長181cm、体重158s。得意手は、右四つ[注 1]、寄り、吊り、上手投げ。引退後は年寄鳴戸を襲名。鳴戸部屋師匠として稀勢の里若の里隆乃若ら7人の関取を育成した。
現役時代
入門

浪岡町の農家の次男に生まれる。春は雪囲いの片づけをして、苗代作り、リンゴの授粉、秋は「身体が大きいから人より持たないとバカにされる。」と思いながら稲刈りを手伝い、ヤギの乳をビール瓶に詰めて学校に持っていって育った[3]

弘前市出身の二子山親方(第45代横綱初代若乃花)が、大鰐で下山勝則(後の若三杉、2代若乃花)をスカウトしてタクシーに乗ると、運転手が「親方、浪岡にも大きいのがいます」と言うので紹介を頼んだ。これが高谷俊英、のちの隆の里だった。

農協に貼ってあった山積みの米とリンゴを背景に立つ初代若乃花のポスターを「成功の象徴」として見て育った高谷少年は、東京には興味があったが、当初は高校入学直後で足を怪我していたため固辞した。しかし、二子山が「夜行の切符を取ってあるんだ。これが無駄になる。A寝台なんだ。」とつぶやくと、迷惑をかけてはいけない、高校を卒業してからでもいいというので、いったん東京見物をしようと思い連れだされると、その間に身辺に根回しをされてしまい観念した。のちに横綱に昇進する下山少年と高谷少年が、二子山親方に連れられ、夜行列車ゆうづる」に乗って一緒に上京したことになる。二子山親方は二人が途中駅で下車し引き返さないように終点上野駅の一つ前の駅まで一晩中寝ずに見張り、その駅を出発してようやく安心して眠ったという。

上野駅のホームに「月面にしるす第一歩のような気分で」降り立ち、杉並区の二子山部屋に到着すると、生まれて初めて牛肉すき焼きを食べた。そろそろ帰りたいと思ったタイミングで、担任と同級生から手紙や寄せ書きが届き、すでに入門したと伝える地元紙の切り抜きが入っていた[4]。偶然のことから二子山親方に勧誘された高谷は、浪岡高校柔道に励んでいた)を中退して二子山部屋に入門することを決め、1968年(昭和43年)7月場所で初土俵を踏む[5]
糖尿病との闘い

未成年の取的時代から酒好きであり、しばしば稽古を抜け出してを一気飲みする、稽古の後にビールを3本飲み、ちゃんこと一緒にウイスキーを飲むという半ば酒に溺れた食生活を行っていた[6]。隆の里がこのように大酒を飲むようになった背景には入門2年目の場所中にリンゴ園を営んでいた父を、3年目に5歳年下の妹を病気で失ったという事情がある[7]。父の死を知ったのは、勝ち越しを決め父に朗報を伝えようと病院に電話をしたときであった。病院からの連絡を胸の内に留めていた二子山は翌日「この社会は本場所中は帰れない。力士は土俵が本業だ。それを全うするためには親の死に目に会えないこともある。お前は偉くなって恩返しするしかない。」と、自分が看板である部屋単位の巡業中で父親の死に目に会えず、悲しみをぐっと堪えてそのまま巡業を続けた自分の経験をしみじみと伝えた[8][9]

暴飲暴食が祟り、幕下だった1972年(昭和47年)に、糖尿病を患った[1][10]。入院直後の空腹時血糖値は408[7]。最初は病状を内緒にしていたが、若三杉(下山)が新十両、隆の里が幕下東5枚目だった1973年(昭和48年)7月場所、3勝3敗で最後の一番に勝てば十両入りはほぼ確定的の相撲で、体が脱力感に襲われてまるで動かず敗北した[11]

隆の里は師匠に病状を全て打ち明け場所後に入院した[12]。大量の飲酒もさることながら、遺伝的要素も糖尿病の原因として大きかった[7]。食事に厳しい制限が課せられ「いっぱい食っていっぱい稽古して」という力士が強くなるための条件を半分失った。入院して気が滅入ったが、主治医に「君は将来三役になる力士だから、しっかり治しなさい。」と言われる。師匠の二子山が「先生、高谷は病気さえ治れば大関も夢でないんです。三役になる力士なんです。見捨てないで、何としても治して下さい。」とお願いしていたことを知り奮起した[13]

幸いにも「稽古するな」とは言われておらず、むしろ稽古を増やすことで病状が快方に向かうので人一倍稽古をした。入院中は病院の屋上で四股を踏み、病院中が揺れて驚かれた。入院中は週二回しか風呂に入れないので、屋上での稽古後は洗面所で身体の汗を拭いた。最初は怒られたが、夜中床に新聞紙を敷いて腕立て伏せに励む姿を見た病院関係者も黙認して応援するようになった[13]。当初は瓶に紅茶を入れてウイスキーと偽って飲んでいたが、糖尿病を隠す力士も多いなか、病気を周囲にきちんと公表し、後援者などとの酒の席でも「病気のためにあまり飲めません」と説明した[6][5]ちゃんこ鍋野菜豆腐を中心にして、もちろん酒は断った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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