隅田川花火大会
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隅田川花火大会
Sumidagawa Fireworks Festival
東京スカイツリーと花火
概要
正式名称隅田川花火大会
旧名称両国川開き大花火
開催時期7月最終土曜日
初回開催1978年(昭和53年)7月29日
会場・場所隅田川近辺(浅草向島周辺)[1]
第一会場 - 桜橋下流?言問橋上流[1]
第二会場 - 駒形橋下流?厩橋上流[1]
打ち上げ数約20,000発
第一会場 - 約9,350発(コンクール玉200発含む)[1]
第二会場 - 約10,650[1]
主催隅田川花火大会実行委員会[1]
後援下記別表記
協賛下記別表記
協力下記別表記
運営隅田川花火大会実行委員会[1]
花火取扱第一会場 - (株)丸玉屋小勝煙火店[1]
第二会場 - (株)ホソヤエンタープライズ[1]
人出1,030,000人(2023年)
最寄駅第一会場 - 浅草駅・押上駅・東京スカイツリー駅・曳舟駅[1]
第二会場 - 浅草駅・蔵前駅・両国駅・浅草橋駅[1]
外部リンク隅田川花火大会
備考:
荒天等の場合は中止、可否判断は当日8時に行う[1]
花火コンクール(10社)は第一会場で開催
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広重「名所江戸百景」に描かれた両国花火

隅田川花火大会(すみだがわはなびたいかい)は、東京都隅田川沿い(台東区浅草(右岸)・墨田区向島(左岸)周辺)の河川敷において毎年7月最終土曜日に行われる花火大会。毎年8月に開催される江戸川区花火大会とともに東京二大花火大会の一つに数えられる。
由来

隅田川花火大会は、江戸時代、隅田川での船遊びが許された納涼花火解禁期間の開始日に、花火師の鍵屋・玉屋が、自身の花火を宣伝する目的で大々的に花火を打ち上げたことに由来する[2]
創られた「伝承」

この大会の起源として、これまで広く流布していた言説に次のようなものがある。隅田川花火大会は、大飢饉とコレラの流行によって江戸で多くの死者が出た1732年享保18年)、8代将軍・徳川吉宗が大川端(現在の隅田川河畔)で催した「川施餓鬼」(死者の霊を弔う法会)に遡る。1733年7月9日(享保18年5月28日)、幕府は前年にならって川施餓鬼とあわせ、慰霊と悪病退散を祈願する目的で、両国の川開きの日に水神祭を実施。その際に花火を打ち上げたのが、現在の花火大会のルーツとされる。

この半ば定説化していた「伝承」は、明治中期から昭和初期(1890年代?1930年代)にかけて徐々に創られていったものであり、歴史的事実とはかけ離れている[3]。例えば、コレラの日本国内での流行は、1822年文政5年)に西日本一帯で起きたのが最初であり[4]、1732年(享保18年)に流行したというのは事実に反する[5]

下に引用した清水晴風の文章は、この「伝承」が形成される途上の1907年(明治40年)に書かれたものである。江戸時代の文献[6]には一切登場しない「享保18年」や「死者供養の花火打ち上げ」などといった情報[7]が記載されている一方、大正時代に突如登場する「水神祭」というワード[8]は、まだ見られない。「両国の夏の納涼花火」隅田川の夏の風物詩として知られる隅田川花火大会の歴史は、享保18年(1733年)5月28日の両国川開きにまで溯る。大飢饉や疫病による死者供養と災厄除去を祈願して、花火師、6代目鍵屋弥兵衛が、花火を打ち上げたのが始まりだった。明治期には11代目鍵屋弥兵衛が、外国から輸入された新しい薬剤を使って赤、青などの発色花火の打ち上げに成功し、また、マニラから持ち帰ったスターマインを、初めて両国川開きで打ち上げた。明治30年(1897年)8月には、見物客の重みで木橋の両国橋の欄干が落ち、多くの死傷者が出る大惨事が起きた。この事故を契機に両国橋は旧橋より上流に鉄橋で架けられた。打ち上げ花火、冠菊(しだれ柳)と両国橋(鉄橋)の絵あり。「昔両国の川開きは五月廿八日に限りたるも今は一定の日はなし花火を打上る前警察署の認可を得て後に執行と?とも此納涼今に至るも東京名物の一なりと定む」と記載あり。50丁表に「江戸一流元祖南京 龍田○○ち 男山○○○ むさしの○○ 安部野らんきく 宮城野乃萩横山町壱丁目 花火せん香かきや弥兵衛」と記載がある花火師、鍵屋弥兵衛の広告あり。 ? 清水晴風『東京名物百人一首』1907年8月「両国の夏の納涼花火」より抜粋[9]
萌芽(明治20年代)

時間をかけて少しずつ形作られた、この「伝承」の萌芽は、明治20年代に現れる[10]1891年(明治24年)の新聞記事では、多数の仕掛け花火の打ち上げが始まったのは「凡百六七十余年前」とあり[11]、これに基づけば、1731年(享保16年)頃以前に始まったことになる。「伝承」にあるような、1733年(享保18年)という具体的な年は、この記事にはなく、また、死者供養と災厄除去を祈願する話も一切なく、隅田川で販売する花火の売り出し広告として川開き花火を始めたと書かれている[12]

翌年以降も似たような記事が新聞に掲載されるが、始期についての記述はまちまちで、1892年(明治25年)の記事では「凡そ二百年前」[13]1893年(明治26年)の記事では「百数十年前」[14]1896年(明治29年)の記事では「明暦〔1655?58年〕以前」[15]と一定していなかった。このように明治20年代の段階では、始期について、享保年間を含む約100年の「誤差」があり、「享保18年」というピンポイントの「設定」はまだ誕生していなかったのである[16]
「享保18年」の特定(明治30年代)

「享保18年」という具体的な年が現れるのは、明治30年代になってからである。その嚆矢が1903年(明治36年)の新聞記事であり、そこには「享保十八年五月旧幕府の免許を得て始めて挙行せし」と記されている[17]。しかし、この記事には、「享保18年」に始まったことを裏付ける根拠は一切示されていない。それにもかかわらず、これ以降、「享保18年」という数字がその真偽を検証されることなく、独り歩きしていく。

ただし、すぐに享保18年説が確固たる地位を得たわけではない。1932年(昭和7年)の新聞記事では、「天和二年〔1682年〕川開が始まつてから二百五十年」とあり[18]、主催者がそれを記念して川開きを大々的に催すことにしたと書かれている。主催者が天和2年説を喧伝していることから、1932年(昭和7年)の段階では、まだ享保18年説は十分に定着していなかったことが分かる[8]
「飢饉」への言及(明治40年代)

明治40年代には、上で引用した清水晴風『東京名物百人一首』などのように、「飢饉」との関連性を指摘する記述が登場する。

しかし、「飢饉→死者→慰霊→花火」というストーリーはまだ一般化していなかった。例えば、1911年(明治44年)に出版された若月紫蘭『東京年中行事 下巻』には次のように書かれている。享保十八年、八代将軍吉宗の時である。前年大飢饉の余勢をうけて米価しきりに騰貴し、山陽・西海・四国尤も甚しく、民の餓死するもの九十六万余人に及んだと言うにもかかわらず、漸く太平に慣れ、奢侈の風これより盛んならんとしたる江戸に於ては、この年五月二十八日を以て、今猶江戸名物の名残の一として数えられつつある、隅田川は両国の川開が初めて催されたのである。 ? 若月紫蘭『東京年中行事 下巻』(春陽堂、1911年)より抜粋


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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