陽成天皇
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陽成天皇
江戸時代の百人一首より
第57代天皇
在位期間
876年12月18日 - 884年3月4日
貞観18年11月29日 - 元慶8年2月4日
即位礼877年1月20日(元慶元年1月3日
大嘗祭877年12月26日(元慶元年11月18日
元号貞観
元慶
時代平安時代
先代清和天皇
次代光孝天皇

誕生869年1月2日貞観10年12月16日
染殿第
崩御949年10月23日天暦3年9月29日
冷然院
大喪儀949年10月26日(天暦3年10月3日
陵所神楽岡東陵
追号陽成天皇
諱貞明
別称持明院殿
元服882年1月24日元慶6年1月2日
父親清和天皇
母親藤原高子
子女源清蔭
元良親王
元平親王
元長親王
元利親王
源清鑒
源清遠
長子内親王 他
皇居平安宮
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陽成天皇(ようぜいてんのう、(869年1月2日貞観10年12月16日〉- 949年10月23日天暦3年9月29日〉)は、日本の第57代天皇(在位:876年12月18日〈貞観18年11月29日〉- 884年3月4日元慶8年2月4日〉)。は貞明(さだあきら)。
略歴
藤原基経との確執

生後3か月足らずで立太子し、貞観18年(876年)11月に9歳で父・清和天皇から譲位される。父帝に続く幼年天皇の登場であり、母方の伯父・藤原基経摂政に就いた。在位の初めは、両親および基経が協力して政務を見たが、元慶4年(880年)に清和上皇が崩じてからは基経との関係が悪化したらしく、元慶7年(883年)8月より基経は出仕を拒否するようになる。

基経は清和天皇に娘2人を入内させていたが、さらに陽成天皇の元服に際して娘の佳美子または温子を入内させようとしたのを、皇太后・高子が拒否したためではないかという説がある[1]

これに対し、清和天皇の譲位の詔は基経の摂政を陽成天皇の親政開始までとしており、元慶6年(882年)の天皇元服を機に、基経が摂政を一旦辞することは不自然ではなく、関係悪化の証拠にはならないという反論[2]もあるが、元慶4年(880年)12月の清和上皇が臨終に際して基経を太政大臣に任じたときも、基経は単なる慣例的儀礼的行為以上に5回もの上表を繰り返した[注釈 1]うえ、摂政でありながら翌年2月まで私邸に引きこもって一切政務を執らず[3]、政局を混乱させている。

一連の確執の本質は摂政・基経と国母である高子の兄妹間の不仲と権力争いであり、在原文子(清和の更衣)の重用を含めた高子の基経を軽視する諸行動が、基経をして外戚関係を放棄をしてまでも高子と陽成天皇を排除させるに至ったとの見方もある[4]。ただし、在原文子を更衣としてその間に皇子女をもうけたのは清和自身である。高子が清和との間に貞明親王(陽成)・貞保親王敦子内親王を儲けたにもかかわらず、清和は氏姓を問わずあまたの女性を入内させ多くの皇子をもうけていたことから、基経も母方の出自が高くない娘・頼子を入内させ、さらに同じく出自の低い佳珠子を入内させて外孫の誕生を望んだために、高子の反発を招いたと見ることもできる。
宮中殺人事件と退位

基経の出仕拒否からしばらく後の元慶7年11月、陽成の乳兄弟であった源益が殿上で天皇に近侍していたところ、突然何者かに殴殺されるという事件が起きる[5]。事件の経緯や犯人は不明とされ、記録に残されていないが、陽成が事件に関与していたとの風聞があったといい、故意であれ事故であれ、陽成自身が起こしたか少なくとも何らかの関与はあったというのが、現在までの大方の歴史家の見方である。宮中の殺人事件という未曾有の異常事に、基経から迫られ、翌年2月に退位し、太上天皇となる(ただし、公には病気による自発的譲位である)。

幼少の陽成にはそれまでも奇矯な振る舞いが見られたとされるが、退位時の年齢が17歳(満15歳)であり、殴殺事件については疑問点も多く、高子・陽成母子を排除して自身の意向に沿う光孝天皇を擁立した基経の罪を抹消するための作為だともいわれる[6]。また、事件が実際にあったとしても、その犯人が陽成とするのは退位後の行動や後世の史料に影響された推測に過ぎないとする批判と共に事件の3日後にこれまで出仕していなかった基経が宮中に乗り込んで陽成側近である下級官人の粛清を図っていることに注目した指摘もある[7]
皇統の移動

陽成には同母弟・貞保親王もあり、また基経の外孫である異母弟・貞辰親王女御・佳珠子の所生)もあったが、基経・高子兄妹間の確執とそれぞれの憚り(同母弟を押し退けての外孫の擁立、我が子の不祥事)がある状況ではいずれとも決しがたかったのか、あるいは幼年天皇を2代続けた上の事件発生という点も考慮されたか、棚上げ的に長老格の皇族へ皇位継承が打診された。まず陽成の曾祖父の仁明天皇の従弟で、かつて変事に絡んで皇太子を廃された恒貞親王(出家して恒寂)に白羽の矢が立ったが拒絶された。仁明の異母弟である左大臣の源融は自薦したものの、諸臣に「源姓を賜って今は臣下である」と反対を受ける。結局、仁明の皇子(陽成の祖父・文徳天皇の異母弟)である大叔父の時康親王(光孝天皇)が55歳で即位することになった。

光孝は自身の皇位を混乱回避のための一代限りのものと心得、すべての皇子女を臣籍降下させて子孫に皇位を伝えない意向を表明した。それは皇位が陽成の近親者、特に陽成の弟であり、また藤原基経の甥でもある貞保親王に行く可能性を考えての行動であった。ところが、即位から3年後の仁和3年(887年)、光孝は病に陥り皇位の行方が問題となった。が、基経は高子と相変わらず仲が悪く、その子である貞保親王を避けていたために、基経と光孝は相計り、次期天皇として8月25日に光孝の子である源定省を皇籍に復帰させ翌日には立太子させた。同日、光孝天皇は崩御し、定省親王(宇多天皇)が践祚した。源定省の皇籍復帰から皇位継承に至る動きは、重篤であったろう光孝の意志を反映したものかは定かではない。天皇に近侍していた尚侍藤原淑子(基経の異母妹)の力が大きく働いており、同母兄も複数ある中で宇多が皇位を継いだのは、淑子の猶子であったためとも推測されている。

この異例の皇位継承により、皇統は光孝―宇多―醍醐の系統に移り、嫡流であった文徳―清和―陽成の系統に再び戻ることはなかった。後に陽成は、宇多について「今の天皇はかつて私の臣下ではないか」と言った(宇多は陽成朝において侍従であった)という逸話が『大鏡』に載る[8]

陽成の退位後も光孝系の歴代からの警戒感は強く、『日本三代実録』や『新国史』の編纂は陽成に対して自己の皇統の正当性を主張するための史書作成であったとする説[注釈 2]がある。

退位後に幾度か歌合を催している[9]ことからもうかがえるように、歌才があったようだが、自身の歌として伝わるのは『後撰和歌集』に入撰し、のちに『小倉百人一首』にも採録された[10]下記一首のみである。この歌は妃の一人で宇多の妹である釣殿宮綏子内親王にあてた歌である。

 「つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりける」 (百人一首では「淵となりぬる」)

長命を保ち、上皇歴65年は歴代1位で、2位の後水尾上皇の50年を大きく引き離す。宇多の次代の醍醐天皇よりも長生きし、さらに続く朱雀天皇村上天皇と光孝の系統による皇位継承も見届けた。
系譜

清和天皇の第一皇子。


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