陸遜
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陸遜
代の書物に描かれた陸遜

丞相・荊州牧・右都護・江陵侯[1]
出生183年(光和6年)
揚州呉郡呉県
死去245年3月19日赤烏8年2月4日
荊州武昌郡武昌県
?音Lu Xun
伯言
諡号昭侯
別名初名:陸議
号:神君
主君孫権
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陸 遜(りく そん)は、中国後漢三国時代の武将・政治家。もとの名は議。字は伯言(はくげん)。は昭侯(しょうこう)。陸続の玄孫。陸褒の曾孫。城門校尉陸紆の孫。九江郡都尉陸駿の子。弟に陸瑁。姉妹に顧邵妻・姚信母。子に陸延・陸抗。孫に陸機陸雲など。

後漢末期より、山越討伐で頭角を現し、孫権に才能を買われ、仕えた。関羽討伐や夷陵の戦いにおいてその名をあげ、軍政両務における呉の重臣として重用されたが、晩年は二宮事件に巻き込まれ、孫権と対立した。
生涯
陸家の長に

本貫揚州呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市呉中区)。陸氏は呉の四姓と呼ばれる有力豪族であり、陸遜はその傍系として生まれた[2]

父の陸駿は徳と誠心を持った人物として慕われたが、九江郡の都尉にまでなった時に亡くなった。陸遜はまだ幼かったため、本家筋の陸康(陸遜の従祖父)を頼り、廬江の治所舒県に住んだ。

陸康は後漢王朝の廬江太守であった。揚州を袁術が牛耳るようになると、当初は末子の陸績を寿春に赴かせるなど友好的な関係であったが[3]、 194年(興平元年)、兵糧問題により袁術と対立し、その部将である孫策の攻撃を受けるようになった。陸康はまだ幼かった末子の陸績を陸遜に委ね、本籍である呉県に避難させた。陸遜は家長である叔父の陸績より数歳年長であったため、後見人として家政を握った。

若い時、同県出身の陸績と顧邵の名声には及ばなかったが、張敦卜静吾粲と肩を並べ名声を等しくした[4]

203年(建安8年)、21歳のとき、孫策の弟の孫権軍の麾下旗下に加わった。なお、陸績は孫策の代にすでに仕えていた。最初に、文官として仕事に就いた。孫権の幕府の東曹と西曹の令史(秘書官)を務めた後、海昌県(後の塩官県)の屯田都尉となり、海昌の統治も同時に行った。当時、同県は何年も干ばつに悩まされて民は困窮していたが、陸遜は倉庫を開いて貧しい人々に穀物を配り、農業と養蚕を推奨し農業発展を監督し、民の生活を支えて地元の人々の信頼を得た。号は「神君」[5]
山越の討伐

孫氏の版図である呉郡・会稽郡・丹陽郡には、孫氏の統治に従わず逃散している人々がいたため、陸遜はその中から兵士を募ることを申し出た。山越の不服従民の頭領に潘臨という者がおり、各地を荒し回っていたが、陸遜は志願兵を募って奥地まで出兵してこれを平定し、自身の部曲に編入した兵士は2000人に上った。

216年(建安21年)、賀斉と共に討伐し?陽の不服住民の尤突ら数千人の反乱を鎮めた。この功績で定威校尉となり、利浦に軍を駐屯させた[6]。孫権は彼を気に入り、自分の姪である孫策の娘を嫁がせるなど重用された。

217年(建安22年)、孫権が陸遜に政治の意見を求めた。さらなる軍勢の強化と国内の安定を急務だとし、そのためには内憂である山越を討伐し、それを通じて精鋭を増やす事を主張した。孫権は陸遜を帳下右部督[7](親衛隊長)に任じ、儀仗を授けるとともに、会稽・?陽・丹陽の3郡を統治させた。この時、丹陽の不服従民である費桟が曹操の扇動により蜂起したため、孫権は陸遜にこれを討伐させた。陸遜は、大軍を集めた費桟に対し寡兵であったが、夜襲をかけてこれを打ち破った。3つの郡で募兵を行い、精兵を数万人得るとともに、力が劣る者は民戸に編入した。賊達は一掃され治安は強化された。蕪湖に駐屯した。

会稽太守の淳于式は陸遜の行いを見て、不法に民衆を軍隊に編入させて民衆を混乱させている、と孫権に報告した。その後、陸遜は孫権と会話したとき、話題のついでに淳于式を褒め称えたため、孫権は年長者の風格をたたえている。
荊州攻略

219年(建安24年)、荊州方面で劉備の将軍である関羽と対峙していた呂蒙が病気になり、建業に戻ることになったとき、その帰路の途中で呂蒙と対談を申し入れ、関羽を打倒し荊州を手に入れる謀を練ることを勧めた。呂蒙は建業で孫権と会ったとき、代理の武将について相談されたため、陸遜は才能が優れており、かつ関羽に名が知られていない事から、適任であると述べた。孫権はかくして陸遜を召し、偏将軍・右部督に拝して呂蒙に代えた。

陸遜は謙った態度の手紙を送って関羽の軍功を称えた。そのため関羽は油断し、呉に対する備えを完全に怠るようになった。陸遜はこのような状況である事を孫権に報告し、関羽を捕えるための作戦の要旨を述べた。孫権はこの知らせを受けて、関羽討伐を決断し、呂蒙と陸遜をその先鋒として長江を下らせた。陸遜は呂蒙と共に公安と南郡を攻撃し、たちまちのうちに降伏させた。陸遜は宜都に入り宜都太守の職務を遂行し、撫辺将軍、華亭侯に封じられた。219年11月には、劉備の任命した宜都太守の樊友は逃亡し、郡にある城の長官や居住する異民族達は陸遜に帰順した。陸遜は呉の朝廷より金銭や宝物を与えられると、それらを帰順してきた者に振舞った。部下の李異謝旌に命じて、近隣の劉備軍の残党や支援者を追討させ、討ち取ったり捕虜にしたり帰順させた者の合計は数万人にも達したという。

この功績により陸遜は右護軍・鎮西将軍・婁侯となった[8]。さらに揚州呂範に命じ、陸遜を州に招いて別駕従事とし、茂才に推挙したという。陸遜は全jら揚州の名族の子弟とともに呂範の風下に置かれるような立場であったという[9]

陸遜は、新たに呉に服属した荊州の者達の多くが能力に応じた活躍の場が得られない状況を見て、その不満を取り除いてやるよう孫権に上奏した。孫権はそれに従った。
夷陵の戦い陸遜

222年(黄武元年)、(蜀漢)を興し自ら皇帝となった劉備は関羽の復讐と荊州の奪還のために呉との国境地帯に侵攻してきた。陸遜は孫権により大都督に任じられ、朱然潘璋宋謙韓当徐盛鮮于丹孫桓ら5万の軍の指揮を執って劉備軍と対峙した。諸将は古い軍歴を誇る宿将であったり、宗室に連なる身分であったりしたため、陸遜を侮るような態度をとり、陸遜を臆病者と揶揄したという。しかし、陸遜は剣に手をかけて軍令を遵守させた。「自分はただの書生であったが、主上から命令を受けている。国家が諸君を屈して相い承望させている理由は、僕に尺寸の称えるべきがあり、辱を忍んで重責を負えるからなのだ。各々がその職事に在ってどうして復た辞退できよう」

一方、孫権への手紙には、夷陵の重要性を述べ、劉備の戦術的な失敗から、あまり心配する必要はない、と書いたという。また、軍がそのような状況であってもなお、発生した騒動のことを報告してこなかった。この時、孫桓が夷道において敵に包囲されたときも、孫桓を信じて救援に赴かなかったため、孫桓に恨まれたという。劉備は盛んに呉軍を挑発したが、陸遜は伏兵を見破りそれに応じなかった。劉備軍の疲弊を見て取った陸遜は反撃に転じ、火攻めなどで攻撃し、退路を断って蜀軍を壊滅させ、劉備を白帝城に敗走させた(夷陵の戦い)。このときになって初めて諸将は陸遜を信頼し、また、窮地を脱した孫桓も陸遜の智謀の深さをさとって畏敬の念を表した。後に孫権も諸将の勝手な振る舞いを知って、陸遜を召見した際は「なぜ報告しなかったのか」と問い、「主上の恩を受け、実際の能力より重大任務を背負う事になりました。まして諸将は国を支える功労者です。臣は藺相如寇恂のような人を慕い、国事を遂げようとする者であります」と答えた。孫権はこの言葉を気に入り、陸遜に輔国将軍を加官し、荊州牧とし、江陵侯に改封した。

劉備は白帝城にとどまり、本拠を移したため、徐盛・潘璋・宋謙は孫権に上奏し、劉備を捕えるため白帝城を攻撃する事を求めた。このことについて陸遜は孫権に意見を求められると、慎重論を主張していた朱然や駱統の意見に同意を示し、曹丕は表向きは援軍と称して軍を進めてきているが、実は呉を攻撃する事を企んでいるから、それに備えるため軍を撤退させることを求めた。

まもなく曹丕は呉への攻撃の意思を示し、江陵など3方面から攻撃をしかけてきた。劉備は陸遜に手紙を送り、蜀から援軍を江陵に送ることを提案したが、呉蜀の国交が回復したばかりであることと、蜀軍は敗北で疲れきっており、国力の回復に努めるべきではないか、と意見し、これを断ったという[10]
社稷の臣

223年(黄武2年)4月、陸遜は丞相の孫邵や群臣一同と共に、孫権に帝位に即く事を進言した[11]

劉備が崩御し、劉禅が蜀の皇帝に即位すると、諸葛亮丞相として政権を握り、呉と蜀の国交は完全に回復するようになった。孫権は諸葛亮に手紙を送るときは、常に陸遜を通じて行い、また、自身の印璽を陸遜に預け、呉の蜀との外交文書は陸遜が添削した上で発行されるようにした。歴代で特別な待遇を受けた。

226年(黄武5年)春、孫権は民衆が疲弊し、耕地が放置されていることを憂い、その対策を求めた。陸遜は上奏し、諸将に農地を開墾されるよう願ったところ、孫権はその意見を褒め、自らも実践するよう取り計らった[12]


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