陸軍造兵廠
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名古屋陸軍造兵廠・鷹来製造所跡

陸軍造兵廠(りくぐんぞうへいしょう)は、大日本帝国陸軍の機関の一つ。
概要

1923年大正12年)3月29日に創設された帝国陸軍の兵器製造施設。[1]小銃弾薬火砲等の製造から馬具軍刀に至るまで、国内4箇所の工廠と2箇所の兵器製造所に於いて製造にあたった。陸軍大臣に直隷し、長官には陸軍中将が就いた。初代長官は横山彦六中将で、1940年昭和15年)4月1日、第8代長官小須田勝造中将の時に、陸軍兵器廠に統合された[2]
沿革

前身は、
1879年(明治12年)10月に設置された砲兵工廠で、砲兵工廠提理が統括した。本廠である東京砲兵工廠と、支廠たる大阪砲兵工廠の二つが在った。

1923年(大正12年)3月29日に陸軍造兵廠に改編され、長を長官と改めた。本廠は兵器の考案・設計、長官直轄製造所の管理、所掌事務を行い、東京大阪名古屋に工廠を置いた。火薬・爆薬の製造を主に取り扱った工廠を火工廠とし、これも東京に置いた。後に小倉・南満州奉天)に工廠を増設した。夫々の工廠には小銃・砲具等の製造所を置き、火工廠は火薬製造所を置いた。この他本廠直轄製造所として、小倉兵器製造所・平壌兵器製造所があった。

1936年(昭和11年)に、長官の植村東彦中将、首席陸軍技師(勅任官)西村文雄が兵器納入業者から賄賂を受け取ったとして逮捕された。

1940年(昭和15年)4月1日に、従来の陸軍兵器廠と統合され廃止。この陸軍兵器廠の下に支廠として各陸軍造兵廠が置かれた。これは、今までの工廠にあたる格で東京第一・東京第二・相模・名古屋・大阪・仁川・南満に置かれた。東京第一の場合、正式には「東京第一陸軍造兵廠」と称した。

歴代長官

横山彦六 中将:1923年(大正12年)4月1日 -

吉田豊彦 中将:1924年(大正13年)2月4日 -

緒方勝一 中将:1928年(昭和3年)3月8日 -

岸本綾夫 中将:1931年(昭和6年)8月1日 -

植村東彦 中将:1934年(昭和9年)8月1日 -

(扱)梅津美治郎 中将:1936年(昭和11年)4月22日 -

永持源次 中将:1936年(昭和11年)8月1日 -

小須田勝造 中将:1938年(昭和13年)12月10日 - 1940年(昭和15年)4月1日(陸軍兵器廠に統合)

最終所属機関東京第一陸軍造兵廠大宮製造所集合写真 (1945年8月)

※括弧内は陸軍兵器廠に統合後の名称。

陸軍造兵廠東京工廠(東京第一陸軍造兵廠

精器製造所

銃砲製造所

火具製造所

川越製造所


陸軍造兵廠火工廠(東京第二陸軍造兵廠

板橋製造所

多摩製造所

岩鼻製造所

忠海製造所

曽根製造所

宇治製造所


陸軍造兵廠名古屋工廠(名古屋陸軍造兵廠

鳥居松製造所

熱田製造所

高蔵製造所

立川製造所


陸軍造兵廠大阪工廠(大阪陸軍造兵廠)

大阪工廠研究所

弾丸製造所

信管製造所

鉄材製造所

火薬製造所

火砲製造所

播磨製造所


陸軍造兵廠小倉工廠(小倉陸軍造兵廠)

砲弾製造所

砲具製造所

平壌製造所


陸軍造兵廠南満工廠(南満陸軍造兵廠)

脚注[脚注の使い方]^ 陸軍造兵廠令。大正12年3月30日勅令第83号。
^ 陸軍兵器廠令。昭和15年4月1日、勅令第209号。従前の陸軍兵器廠令(大正2年3月28日、勅令第30号)を廃止し、従前の陸軍造兵廠令を全部改正し、陸軍兵器廠令に改題した。

参考文献

秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。

原剛安岡昭男編『日本陸海軍事典コンパクト版(上)』新人物往来社、2003年。

防衛研修所戦史室『陸軍軍戦備』 朝雲新聞社戦史叢書〉、1979年。

関連項目

海軍工廠

東武啓志線

相模陸軍造兵廠


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