陸軍士官学校_(韓国)
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陸軍士官学校??????
陸軍士官学校
モットー智・仁・勇(? ? ?)
種別国立, 軍学校
設立年1946年5月1日
学長梁淙e(朝鮮語版)中将
所在地 大韓民国ソウル特別市
芦原区花カ路574
キャンパス都市
公式サイトhttps://www.kma.ac.kr:461/
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陸軍士官学校
各種表記
ハングル:??????
漢字:陸軍士官學校
発音:ユックンサグァナッキョ
日本語読み:りくぐんしかんがっこう
英語表記:Korea Military Academy (KMA)
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陸軍士官学校(りくぐんしかんがっこう / ユックン・サグァン・ハッキョ、??????)は、韓国軍陸軍将校を養成する4年制軍事学校である。愛称は“花カ臺”(ファランデ、???)。略称は陸士(ユッサ、??)。ソウル特別市蘆原区孔陵洞に所在し、現任学校長は梁淙e(朝鮮語版)中将
概要

入学資格は、大韓民国国民の未婚男女で、満17歳から21歳の間の高等学校卒業資格者となっている。4年間の教育終了後、専攻により人文科学国語哲学英語外国語学・心理学)・社会科学経済学法学)・理学数学物理学化学)・工学(電子情報工学・環境土木工学)・軍事学(軍事史学、安全保障管理学・武器機械工学・体育学)の学士号を授与され、陸軍少尉に任官する。在学中の生徒への待遇は、日本防衛大学校や他の士官学校2校と同様に、被服・寝食・学費が支給され、所定の給料を受ける。

学校敷地は約226万平米(ゴルフ場約82万平米を含む)。建物176棟、延べ床面積20.5万平米の規模を有する。生徒寮である花郎館、教会聖堂法堂等の宗教施設や陸士病院もある。5月1日を創立記念日とし、2006年に創立60周年を迎えた。
沿革

1945年12月5日に、南朝鮮国防警備隊の創設要員を育成するためにソウル西大門区冷泉洞に開校した軍事英語学校(朝鮮語版)(Military Language School)を起点とする。これはアメリカ軍を顧問として軍事組織を創設するにあたり、アメリカ軍との連絡調整の中核となる幹部は英語に通じている必要があったためである。入学したのは日本軍満州国軍で経歴を積んだ者がほとんどで[1]、教育期間は40日、最終的に110人が卒業したが、中途からは入隊のための資格を付与するための名目上の機関となり、試験に合格したり、推薦を受けるだけでそのまま卒業扱いとなる例もあった。

1946年5月1日、ソウル東北方10キロにある泰陵(テヌン)で南朝鮮警備士官学校、6月15日には朝鮮警備士官学校(Korean Constabulary's Center)へと再編され、1948年9月5日に陸軍士官学校に改称された。初期の履修期間は1ヶ月半だったが、徐々に3ヶ月、6ヶ月、1年と改められた。

1950年6月の朝鮮戦争勃発により臨時休校したが、1951年10月31日慶尚南道鎮海で4年制正規士官学校として再開し、1954年6月23日泰陵に復帰、1957年所在地一帯は花郎台と改名された。

軍政時代には、卒業生が政界の要職を独占したことから、「学士より博士 博士より陸士」とも言われた。全斗煥盧泰愚新軍部の首脳は陸士が4年制となった1951年の入校であり、それ以前に入校して軍歴を積んだ旧軍部とは世代間の対立があった。

1998年には女性にも門戸を開放している。2004年の新入生に対する意識調査では韓国の敵対国家の第1位はアメリカであるとの衝撃の事実を受け、思想教育を積極的に行うこととなった[2]
初期の履修期間

履修期間[3][4]期別期間入校者教育内容備考
第1期1946年5月1日 - 1946年6月15日曹長以上の軍歴を有する者制式訓練、九九三八式小銃訓練、分隊小隊戦術40名が任官[5]。朝鮮戦争では中堅的な佐官将校として活躍した[6]。7名が戦死[6]
第2期1946年9月25日 - 1946年12月14日曹長以上の軍歴を有する者制式訓練、九九・三八式小銃訓練、分隊・小隊戦術、読図法196名が任官[7]。朝鮮戦争では少佐や中佐で大隊長や連隊及び師団参謀などで、戦争後半は大佐に進級して連隊長として活躍した[8]。34名が戦死し、6名が行方不明となった[8]
第3期1947年1月13日 - 1947年4月19日推薦された下士官制式訓練、九九・三八式小銃訓練、分隊・小隊戦術、読図法、卒業直前にM1小銃と重機関銃を紹介296名が任官[9]。朝鮮戦争勃発時、ほとんどが大尉や少佐で大隊長を務めており、休戦になる頃には大佐で連隊長級になっていた[10]
第4期1947年5月6日 - 1947年9月10日推薦された下士官制式訓練、九九・三八式小銃訓練、分隊・小隊戦術、読図法朝鮮戦争勃発時は中隊長であり、初期の後退で38名が戦死した[11]
第5期1947年10月23日 - 1948年4月6日民間から募集制式訓練、小隊攻防訓練、読図法、M1小銃・重機関銃訓練380名が任官[12]。朝鮮戦争勃発時、ほとんどは大尉や少佐で大隊長、副大隊長、連隊参謀[13]。97名が戦死もしくは行方不明となった[13]
第6期1948年5月5日 - 1948年7月28日推薦された下士官制式訓練、小隊攻防訓練、読図法、M1小銃・重機関銃訓練235名が任官[14]
第7期1948年8月9日 - 1948年11月10日民間から募集制式訓練、小隊攻防訓練、読図法、M1小銃・重機関銃訓練朝鮮戦争勃発時は中隊長や連隊参謀で、休戦時は大隊長や師団参謀であった[15]
第7期特別1948年8月18日 - 1948年10月12日軍事経歴者89名が任官[16]。朝鮮戦争での戦死・行方不明は40名[16]
第7期後半1948年11月22日 - 1948年12月21日軍事経歴者345名が任官[17]
第8期1948年12月7日 - 1949年5月23日民間から募集一般学、火器学、戦術学、中隊大隊戦術朝鮮戦争勃発時、第一線部隊勤務は小隊長、中隊副官、大隊参謀であり、戦死・行方不明は382名であった[18]
第8期特別第1班1948年12月7日 - 1949年1月1日[19]11名が入校し、7名が大佐、1名が中佐、1名が少佐、2名が大尉に任官した[19]
第8期特別第2班1948年12月7日 - 1949年1月14日[19]145名が任官[19]


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