陸軍士官学校_(日本)
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出典検索?: "陸軍士官学校" 日本 ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2020年8月)
1907年(明治40年)当時、市ヶ谷台の陸軍士官学校本部と正門。「市ヶ谷台上」とも称されていた通り陸士は台地に置かれ、この丘は現在の防衛省市ヶ谷地区にも残り陸士跡に建つ防衛省市ヶ谷庁舎も丘の上にある。本部と正門の間の坂が武窓用語における「極楽坂」と「地獄坂」
関東大震災罹災により陸士校舎郡は次掲の近代的なものに逐次建替えされている現在は防衛省市ヶ谷地区の市ヶ谷記念館として、部分現存している1937年6月に建設された市ヶ谷台の陸軍士官学校本部(陸軍予科士官学校本部)。防衛庁本庁市ヶ谷庁舎(現・防衛省市ヶ谷庁舎)の新建設に伴い、旧陸士本部は解体・移設を経て一部が復元された

陸軍士官学校(りくぐんしかんがっこう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:陸軍士官學校󠄁)は、大日本帝国陸軍において現役兵科将校を養成する教育機関(軍学校)のこと。通称・略称として陸士と呼ばれる事例もある。
概要1910年代後期から1920年代最初期頃の士官候補生たる陸軍騎兵軍曹(第32期、賀陽宮恒憲王)陸軍士官學校󠄁ヘ育ノ目的󠄁ハ、帝󠄁國陸軍ノ將校󠄁ト爲ルベキ者󠄁ヲ養󠄁成󠄁スルニアリ ? 『陸軍士官学校教育綱領』冒頭

大日本帝国の「陸軍士官学校(陸士)」は、帝国陸軍の現役の兵科の将校となる者を養成する学校である。「現役」とは役種の一種であり、原則的にその定年まで陸軍に在籍し奉職する職業軍人を意味する。「兵科」とは、歩兵騎兵といった「兵科区分」であると同時に、「特定の兵科区分(広義の戦闘職種たる歩兵・騎兵・砲兵工兵輜重兵憲兵航空兵)の総称」である(経理・衛生・獣医・軍楽・技術・法務といった後方職種は「各部」と称し「兵科」とは区別される)。さらに1940年(昭和15年、昭和15年勅令第580号・第581号)には兵科区分は憲兵を除き撤廃されており、歩兵や航空兵と称さず一律に「兵科」と称するようになっている(「兵種」および兵種としての歩兵などは維持)。憲兵将校は他兵科(兵種)からの転科者を陸軍憲兵学校にて教育ののち補充させるものであり[注 1]、陸士では養成しない。「将校」とは陸軍では、役種や兵科部に関係なく大将から少尉までの軍人(将官佐官尉官)の総称である。「士官」は「将校」と同義とされることもあるが、陸軍では1937年(昭和12年、昭和12年勅令第12号)まではあくまで『陸軍武官官等表』上では尉官を「士官」と称しており(佐官は上長官、将官は変わらず将官)、「陸軍士官学校」とは尉官を養成する陸軍の学校という意味ともなる。

陸士は、上述の帝国陸軍の中核かつ本流たる未来の高級幹部たらん「生徒」を主に、ほか現役兵科将校となるべき選抜された兵科の准士官下士官予備役将校を「学生」、および外国軍将校候補者を「留学生」として迎え入れ将校教育を施す機関でもある(#本科生徒以外の学生等)。
「陸士」・「予士」・「航士」 詳細は「陸軍予科士官学校」および「陸軍航空士官学校」を参照相武台こと座間の陸軍士官学校の皇族舎。1978年、陸上自衛隊によって振武台こと陸軍予科士官学校のあった朝霞(朝霞駐屯地)に移設され、振武臺記念館(振武台記念館)として運用される

帝国陸軍の黎明期からその解体まで組織には幾度の変容があるが、教育段階は旧制学校と同様に本科予科の二層立てであり、教育内容も明確に異なる(#教育課程)。1937年(昭和12年)には人員増加等を理由に、予科は「陸軍予科士官学校」と分離独立した学校となった。同時期、現役航空兵科将校(陸軍航空部隊向けの航空要員たる現役兵科将校)の教育に特化させた本科として、「陸軍航空士官学校(当初は「陸軍士官学校分校」)も分離独立している。これらはそれぞれ「陸士」・「予士」・「航士」などと略称された(#歴史)。「陸軍予科士官学校」の独立後は本科たる「陸軍士官学校」のみを指して陸士と称されることもあるが、あくまで予士および航士も「陸軍士官学校」である。

陸士と関係する学校としては以下のものが存在する。

陸軍幼年学校(陸幼)は幾度の変容があるが、陸士が予科・本科制度となった1920年代以降は将校候補者すなわち将来は陸士の予科に入校し生徒となる者を、若年時から「純粋培養」する旧制中学校相当の養成機関である。陸幼生徒は陸士の予科生徒と合わせて「将校生徒」と呼称された。陸士の予科の生徒は大別してこの陸幼出身者と一般の中学出身者からなる。詳細は「陸軍幼年学校」を参照

陸軍大学校(陸大)は主に参謀を養成する高等教育機関であり、選抜された陸士卒(己種・丁種学生を含む)の中尉・少尉が入校する。詳細は「陸軍大学校」を参照

陸軍経理学校は主に経理部の主計将校(各部将校)を養成する教育機関であり、現役主計将校を養成する陸経の課程は現役兵科将校を養成する陸士と同格の存在であった。1935年に陸士に準ずる予科・本科制に改正し「経理部士官候補生」の制度を導入、陸士の兵科士官候補生(陸士生徒)と同様の待遇を施している。陸士より要求身体能力(主に視力)が緩く、現役主計将校の召募人数は少なかったこともあり入校倍率は極めて高倍率であった。なお、陸経ではほかに甲種幹部候補生出身の予備役主計将校の養成も行っているが、これは経理部士官候補生の制度とは全く異なる。詳細は「陸軍経理学校」を参照

満洲国陸軍軍官学校(満洲帝国陸軍軍官学校)は満洲国軍(満洲帝国軍)の軍官学校(士官学校)であり、一定数の日本人日系生徒が予士から進学しているほか、満洲人・朝鮮人・蒙古人からなる現地の満系生徒の優秀者は陸士に留学した。詳細は「満洲国陸軍軍官学校」を参照

1938年(昭和13年)以降、甲種幹部候補生出身者を生徒とし、予備役兵科将校を養成する教育機関として陸軍予備士官学校(予備士)が複数校設置されている。「予備役」兵科将校を養成する陸軍予備士官学校は、「現役」兵科将校を養成する陸軍士官学校(および士官候補生を養成する陸軍予科士官学校)とは全く異なる別種の士官学校である。詳細は「陸軍予備士官学校 (日本)」を参照
生徒・学生

制度にも幾度の変容があるが、1937年の改制移行は概ね予科の生徒は「生徒」(「陸軍予科士官学校生徒」・「将校生徒」)と、一方で本科の生徒は特に「士官候補生」(「候補生」)と称する。そのため予科生徒は校内では「田中生徒」、本科生徒は「佐藤候補生」と、予備役将校・准士官・下士官からなる「学生」は元の階級に拘らず「山田学生」などと呼称され校内では平等に扱われる。これら生徒・学生は陸士校歌の第2番歌詞では「市ヶ谷台の若」(「相模原の若桜」・「振武の台の若桜」)と形容されている。

生徒は生徒隊のもと各中隊の各区隊に属し(第1中隊第2区隊等)、それぞれ将校である中隊長と区隊長がこれを率いる。区隊長は全陸軍から選抜された大尉・中尉であり、区隊三十数名程の生徒に触れ合う存在であるため直接至大な影響を与えていた[注 2][1]


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