陸軍士官学校_(チリ)
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陸軍士官学校
Escuela Militar
陸軍士官学校校舎。
創設1817年3月16日
所属政体 チリ
所属組織 チリ陸軍
標語勲功・美徳・愛国(Merito, Virtud y Patriotismo
彩色.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  Amarillo
  Negro
  Azul Prusia
部隊歌ラデツキー行進曲
主な戦歴マイプの戦い
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陸軍士官学校(西: Escuela Militar)は、チリ陸軍士官学校。卒業生は少尉に任官する。正式名称はリベルタドール[1]・ベルナルド・オイギンス陸軍士官学校(西: Escuela Militar del Libertador Bernardo O'Higgins)。
沿革
フランス式時代オイギンス将軍。

1817年3月16日ベルナルド・オイギンス将軍により、将来の将校や軍曹を養成する目的でAcademia Militarが創設された。士官学校ではタルカワノ包囲戦とカンチャ・ラヤダの戦いに参加し、チリ独立に貢献した将校が養成された。最初の施設は、サン・アグスティン教会の修道院(エスタード通りとアグスティナス通りの角)にあり、修道士たちはそこから追い出された。財政上の問題から、1819年に閉鎖された。1823年、ラモン・フレイレが士官学校を再開しようとしたが、国内の無政府状態により計画は頓挫した。

1831年、ホアキン・プリエト大統領と大臣ディエゴ・ポルタレスにより士官学校は再開された。しかし、様々な問題によって1838年2月1日に再び閉鎖された。この時期に訓練された軍人の多くは、ペルー・ボリビア連合戦争に参加した。

1842年10月6日、Academia Militarは再開され、1843年9月28日にEscuela Militarと改称された。対スペイン戦争と太平洋戦争を戦った陸海軍将校はここで訓練を受け、両戦争で勝利を収めた。

1812年までのナポレオンの勝利によって築かれた軍事的威信のため、またその後のクリミア戦争(1853?1856年)でフランス軍が示した効率性のため、チリ陸軍は、19世紀第2四半期における西欧諸国のほとんどの軍隊と同様にナポレオン3世時代のフランスの組織・伝統・習慣・軍服を踏襲した。

1876年11月2日の解散後、微妙な国際情勢のため1878年に再開され、翌年から活動を開始した。19世紀最後の年、アルトゥーロ・プラット海軍兵学校(Escuela Naval Arturo Prat)は、陸軍士官学校の生徒を加えて再編成され、新校舎の建設工事が始まった。
プロイセン式時代陸軍士官学校校舎中央広間。

最初のドイツ人将校が到着したのは1885年9月で、エミリオ・ケルナー・ヘンツェ大尉が率いた。1896年には、チリ軍のためにドイツ人教官が大量に到着し始めた。グンター・フォン・ベロー少佐が軍事学校の校長に、ヘルマン・ロガラ・フォン・ビーベルシュタイン少佐が副校長に任命された。同年、プロイセン製ヘルメットが導入された。1902年、プロイセン軍学校の規定に準じた新しい規定が作成され、1905年にはドイツ式に基づいた新しい制服が採用された。1900年から1910年までのこの時期、総司令官(現在の将軍)はエミリオ・ケルナーで、今日の軍隊の基礎とモデルを築いた。

1927年、アルパタカルの悲劇(Tragedia de Alpatacal)が起こった。同校の生徒たちがブエノスアイレスのパレードに参加する予定だったが、その途中で列車事故が発生し、12人が死亡、52人が負傷した。事故にもかかわらず、チリの生徒たちはパレードに参加した。この悲劇は毎年7月7日に追悼される。
近年陸軍士官学校生徒隊によって運ばれるピノチェトの棺

1940年、当時の校長アルナルド・カラスコ将軍の尽力により、ラス・コンデス地区にあるサン・ルイス邸の一部が取得され、そこに新しい陸軍士官学校が建設され、1955年から1958年にかけて徐々に使用されるようになった。それまで陸軍士官学校は、ホセ・マヌエル・バルマセダ政権時代に建てられた、オイギンス公園の近くにある新古典主義様式の優雅な建物で運営されていたが、時が経つにつれ、この施設の必要性に対して不十分なものになっていた。

アウグスト・ピノチェト将軍が率いた1973年9月11日のクーデター後、軍事政権のメンバーがここで宣誓した[2]

1995年、初の女性士官候補生が入学し、女性による軍事訓練が始まった。2009年の一般教育法により、陸軍士官学校は、軍隊の他の母体となる学校とともに高等教育機関となり、卒業生は「陸軍士官」という職業称号で認められるようになった。現在、法学、微積分学、代数学、物理学、政治学、社会科学の各科目において、チリ・カトリック大学チリ大学、デサローロ大学、マヨール大学が学術プログラムにおいて重要な役割を果たしている。

2006年12月10日に死去したピノチェトの遺体が、陸軍士官学校に安置された。
教育陸軍士官学校卒業生少尉の士官宣誓(2015年)。陸軍士官学校校舎。陸軍士官学校内観。

最終学年の終わりには、学生は以下を選択しなければならない。兵科は以下。

Armas

歩兵(Infanteria)

砲兵(Artilleria)

騎兵(装甲騎兵、Caballeria Blindada)

工兵(Ingenieros)

通信兵(Telecomunicaciones)



Servicios

経理(Intendencia)

兵器(Material de Guerra)

人事(Servicio de Personal)

Cursoは以下。

Curso Avanzado para Oficiales:中尉の最終年度に実施され、大尉に昇格する。


Curso Basico del Oficial Subalterno:少尉が受講し、comandantes de seccionやasesores del mandoになるための資格。

Especialidades Primariasは以下。

Ingeniero Politecnico Militar: Academia Politecnica Militarで取得する。技術参謀。

Oficial de Estado Mayor: 陸軍大学校で取得する。参謀。

Especialidades Secundarias(下級士官で実施され、当校在学4年目から参加できる)は以下。

戦闘潜水員(Buzo Tactico)

コマンドー(Comandos)

電子戦(Guerra Electronica)

体育教官(Instructor de Educacion Fisica)

山岳教官(Instructor Militar de Montana)

諜報員(Inteligencia)

乗馬マエストロ(Maestro de Equitacion)

砲兵航空監視員(Observador Aereo de Tiro de Artilleria

落下傘兵(Paracaidista militar)

陸軍飛行士(Piloto de Ejercito)

軍事学教授(Profesor Militar)

特殊戦闘(Combate especial)

特殊作戦(Guerra especial)


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