陸納(りく とう、生年不詳 - 太元20年2月4日(395年3月11日))は、中国の東晋の官僚・政治家。字は祖言。本貫は呉郡呉県。 陸玩の子として生まれた。はじめ武陵王司馬晞に召し出されて、鎮軍府の掾となった。揚州に秀才に推挙された。会稽国内史の王述に召し出されて、建威長史となった。黄門侍郎・揚州別駕・尚書吏部郎を歴任し、呉興郡太守として出向した。建康に召還されて、左民尚書に任じられ、揚州大中正を兼ねた。太常となり、吏部尚書に転じ、奉車都尉・衛将軍の任を加えられた。 後に子の陸長生が病にかかったため、陸納は官を辞職して看病したいと願い出た。また兄の子の陸禽が法を犯して刑に遭ったことから、陸納は謝罪の名目での免官を求めた。孝武帝は軽い任への降格を特別に許した。陸長生の病状が好転すると、陸納はもとの職に戻された。ほどなく尚書僕射に転じた。386年(太元11年)、尚書左僕射となり、散騎常侍の位を加えられた。389年(太元14年)、散騎常侍のまま尚書令となった。395年(太元20年)、左光禄大夫・開府儀同三司
目次
1 経歴
2 逸話
3 家系図
4 伝記資料
経歴
子の陸長生が父に先だって死去していたため、弟の子の陸道隆が後を嗣ぎ、元熙年間に廷尉に上った。
逸話
陸納が呉興郡に赴任する途中、姑孰で桓温に挨拶して、「公はどのくらい酒を飲まれますか。食べる肉はいかほどですか」と訊ねた。桓温は「年来、3升を飲んで酔い、白肉は10かたまりに過ぎません。卿はまたいかほどで」と聞き返した。陸納は「もとより飲めないため、2升にとどまり、肉はまた言うに足りません」と答えた。後に陸納は桓温を酒宴に招き、王坦之や?彝
陸続