陸 曄(りく よう、永安4年(261年)- 咸和9年9月8日(334年10月21日))は、中国の東晋の官僚・軍人。字は士光。本貫は呉郡呉県。祖父は陸瑁(陸遜の実弟)。父は陸英
。伯父は陸喜。弟は陸玩。高平国相の陸英の子として生まれた。若くして名望があり、従兄の陸機は「我が家は代々公に事欠くことがない」と評していた。後に孝廉に挙げられ、永世県
令や烏江県令とされたが、いずれも就任しなかった。琅邪王司馬睿が江南に駐屯すると、陸曄は召し出されて祭酒となった。ほどなく振威将軍・義興郡太守に任じられたが、病のため受けなかった。永嘉5年(311年)に江州刺史の華軼を討った功績により、平望亭侯に封じられた。散騎常侍・呉郡大中正をつとめた。大興元年(318年)、太子・事に転じた。ときに元帝(司馬睿)は侍中に華北の人士を任用してばかりいたが、江南の人物を登用しようと、清廉守操の評判高い陸曄を侍中に任命した。尚書に転じ、揚州大中正をつとめた。
永昌元年(322年)、明帝が即位すると、陸曄は光禄勲となり、太常に転じた。太寧2年(324年)に紀瞻が死去すると、陸曄は代わって尚書左僕射となり、太子少傅を兼ねた。太寧3年(325年)、金紫光禄大夫の位を加えられ、卞壼に代わって領軍将軍となった。銭鳳を平定した功績により、爵位を江陵伯に進めた。明帝が病床につくと、陸曄は王導・卞壼・?亮・温?・?鑒らとともに遺命を受け、皇太子司馬衍を補佐し、殿中に入り兵を率いて宿直した。録尚書事となり、散騎常侍の位を加えられた。
成帝(司馬衍)が即位すると、陸曄は散騎常侍のまま左光禄大夫・開府儀同三司の位を受けた。咸和2年(327年)に蘇峻の乱が起こると、翌年に陸曄は成帝に従って石頭に移った。陸曄には江南の士人の間の名望があったため、蘇峻もあえて陸曄を害そうとはしなかった。咸和4年(329年)、匡術が苑城で降伏すると、陸曄は匡術とともに督宮城軍事となった。蘇峻の乱が平定されると、陸曄は衛将軍の号を加えられた。爵位は公に進んだ。
咸和9年(334年)9月、病のため死去した。享年は74。侍中・車騎大将軍の位を追贈された。諡は穆といった。
子女
陸ェ(散騎常侍)
陸?(新康子)
家系図
陸続
陸抗 陸晏
陸景
陸玄
陸機 陸蔚
陸雲 陸夏
陸耽
陸瑁 陸喜 陸育
陸英 陸曄 陸ェ
陸?