陸徴祥
プロフィール
出生:1871年7月29日
(清同治10年6月12日)
死去:1949年1月15日
ベルギー王国ウェスト=フランデレン州ブルッヘ
出身地: 清江蘇省松江府上海県
職業:政治家
各種表記
繁体字:陸?祥
簡体字:?征祥
?音:Lu Zh?ngxiang
注音二式
陸 徴祥(りく ちょうしょう)は清末民初の外交官、政治家、宗教家。字は子興、子欣。別名は増祥。
ながく清朝の外交官僚としてロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに駐在し、辛亥革命後には袁世凱のもとで民国政府初代の外交総長に就任、第一次世界大戦後のパリ講和会議では中国主席代表として参加するなど民国初期の外交を代表した。また国務総理として内閣を組閣してもいる。 ウィキメディア・コモンズには、陸徴祥
略歴1871年7月29日(同治10年6月12日)、敬虔なプロテスタントである陸誠安の子として生まれる。幼くしてプロテスタントの洗礼をうけている。1892年、ロシアの首都ペテルスブルクに翻訳官として派遣される。1899年、ベルギー国王侍従武官の娘ベルサ・ボビィと結婚。1906年、オランダ駐在公使。1907年、オランダはハーグの国際平和会議に中国代表として参加。清朝が欧米列強と結んだなかで唯一の平等条約であるオランダ領植民地領事条約を結ぶ。1911年、ロシア駐在公使。ローマ・カトリックの洗礼をうける。12月5日、諸駐在公使とともに清朝政府へ皇帝退位共和制移行を求める電文を打つ。1912年3月、袁世凱の要請をうけて唐紹儀内閣外交総長。6月、唐紹儀辞職にともない外交総長を兼ねたまま代理総理を経て国務総理として組閣。1913年、趙秉鈞内閣外交総長。1915年1月、徐世昌政事堂国務卿のもとで外交総長として日本の対華21ヶ条要求に署名調印した。10月、徐世昌辞職にともないその代理を経て12月には外交総長兼任のまま国務卿に就任するも、袁世凱の帝制取り消しに際して国務卿は免職される。1916年、袁世凱の死を機に外交総長を辞任。1917年、段祺瑞内閣の外交委員会委員。12月、王士珍臨時内閣の外交総長。1918年12月、パリ講和会議中国主席代表として渡欧。1919年1月、病気を理由にパリ会議を欠席するも代表委員顧維鈞、王正廷による本国政府の令に反してのヴェルサイユ条約調印拒否を容認。1920年8月、外交総長を辞職し政界引退。1922年、スイス駐在公使兼国際連盟中国代表。1928年、公職を辞し修道の生活にはいる。1935年、司鐸(神父)。1946年、ベルギーのブランデン山聖ピィエール修道院名誉院長。1949年1月15日、ベルギーのブルッヘで死亡。
関連項目
中華民国
中華民国の歴史
中華民国の首相
参考書籍
山田辰雄編『近代中国人名辞典』霞山会、1995年9月。
劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年
先代:
(創設)外交総長
1912年3月 - 1912年9月次代:
梁如浩
先代:
唐紹儀(国務院総理)内閣総理
1912年6月 - 9月次代:
趙秉鈞
先代:
梁如浩外交総長
1912年11月 - 1913年9月次代:
孫宝琦
先代:
孫宝琦外交総長
1915年1月 - 1916年5月次代:
曹汝霖
先代:
汪大燮外交総長
1917年12月 - 1918年12月次代:
陳籙
先代:
陳籙外交総長
1919年1月 - 1920年8月
(1919年1月 - 1920年1月
陳籙代理) 次代:
顔恵慶
更新日時:2019年1月10日(木)16:19
取得日時:2019/02/04 22:39