陸奥
1926年改装後の陸奥
基本情報
建造所横須賀海軍工廠
運用者 大日本帝国海軍
艦種戦艦
級名長門型
艦歴
計画八八艦隊計画
発注1917年7月31日製造訓令[1]
起工1918年6月1日[2]
進水1920年5月31日[3]
竣工1921年10月24日(公表日)[4]
1921年11月22日引渡[5]
最期1943年6月8日に爆発、沈没
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度58分 東経132度24分 / 北緯33.967度 東経132.400度 / 33.967; 132.400
陸奥(むつ)は、大日本帝国海軍の戦艦[6]。艦名は青森県から福島県にかけての旧国名・陸奥国に由来する[7][8]。姉妹艦「長門」とともに帝国海軍の象徴として、長く日本国民から親しまれたものの、1943年(昭和18年)6月8日に主砲火薬庫から爆発を起こして沈没した[9]。 軍艦 陸奥は長門型戦艦の2番艦[10]。八八艦隊計画二番手である[11]。1番艦「長門」と共に、日本の力の象徴として日本国民に長く愛された[注 1]。横須賀海軍工廠で建造[13]。また竣工当時は世界に7隻しか存在しなかった40cm砲搭載戦艦として『世界七大戦艦』と呼ばれた[注 2]。長門型戦艦2隻(陸奥、長門)は交互に連合艦隊旗艦の任にあったため、知名度は高かった[15][注 3]。戦前の学校の教科書に描かれたり、男子がイメージする軍艦といえば、当時の連合艦隊旗艦である長門、陸奥であった[17]。『陸奥と長門は日本の誇り』
概要
第二次世界大戦中には他の戦艦部隊(大和、長門、伊勢、日向、山城、扶桑)等と共に温存された。陸奥はミッドウェー作戦や第二次ソロモン海戦[24]等で出動したが、敵水上艦隊と交戦する事はなかった。1943年(昭和18年)6月8日、「陸奥」は原因不明の爆発事故を起こし柱島沖で沈没した[25]。戦後に浮揚作業が行われ、1970年(昭和45年)には艦体の一部や菊の御紋章、主砲身や主砲塔などが回収され、日本各地で陸奥の装備が展示された。大戦末期にアメリカ軍の攻撃で沈没し、終戦後に浮揚され解体処分された他の日本軍艦と異なり、艦体の一部が2023年現在も周防大島に残っている。 1921年(大正10年)10月19日の全力公試では排水量33,750トン、87,479馬力で26.728ノットという、後の大和型戦艦に迫る速力を発揮した[26]。長門とは後橋や艦橋指揮場の形状が異なり、艦首フェアリーダーの位置がやや先端に向かっている。艦首は連繋式1号機雷の連繋索を乗り切るための形状となっている[27]。菊花紋章は長門よりもやや高い位置にあった[28]。これは、最終時まで変わらない区別点となった。 新造時には長門が舷側に備える魚雷防御網ブームも新造時の陸奥は装備しておらず、主砲塔の測距儀も、長門の従来型「波式6メートル」から新式の「武式8メートル」という2メートルほど大型化したものに変更されている[29]が、高速時の艦体震動のため、四番砲塔の測距儀は信頼性が低かった[30]。また、長門と同じく、艦橋に吹き込む煙突の排煙・排熱処理が問題となり[31]、長門のものよりも太いファンネルキャップが取り付けられたがあまり効果はなく、1924年(大正13年)3月に屈曲煙突に改装された[32]。この屈曲煙突は長門型戦艦の特徴として知られており[33]、艦橋の10m測距儀の測距精度が向上し、煙突改造の結果は良好だったという[30]。 1926年(大正15年)、長門と共に第一次改装が決定されている。長門の艦首は波切りが悪く、飛沫により砲塔光学装置が曇ってしまうなど問題があり、また艦首被弾時に大浸水を招く恐れがあるため、長門に先んじて陸奥の艦首部分の形状変更が行われた[34]。このため、陸奥の艦首は横から見ると鋭角となったが予定通りの効果が出なかったため、長門は艦首形状を変更していない。この艦首構造の違いは、長門と陸奥の識別点となった[35]。 第二、第三主砲塔の測距儀は10メートル型に換装し、高角砲も従来型の8センチ砲から八九式12.7センチ四〇口径連装4基、ヴィッカース式40ミリ連装機銃2基に変更した。機関は屈曲式の煙突へと変更されている。このほか艦橋前部にも予備指揮場を設けた。羅針艦橋の拡張など、細かな改良は暫時行われた[36]。 陸奥には1934年(昭和9年)9月5日から1936年(昭和11年)9月30日まで大改装が施された。改造の主目的は、砲戦能力向上と防御力改善であった[37]。バルジの装着、艦首部分延長水平防御改善、主砲、高角砲の仰角上げ、注排水区画を増やしている。主砲と砲塔は、加賀型戦艦2隻(加賀、土佐)向けに10基製造され[注 5]、8基保管されていたものを改良して装備した[38][39]。
艦型
改装