陸奥国
[Wikipedia|▼Menu]

陸奥国

■-陸奥国
■-東山道
別称奥州(おうしゅう)
陸州(りくしゅう、ろくしゅう)
所属東山道
相当領域青森県岩手県宮城県福島県秋田県北東部
諸元
国力大国
距離遠国
数35郡193郷
国内主要施設
陸奥国府1.宮城県仙台市郡山官衙遺跡
2.宮城県多賀城市多賀城跡
陸奥国分寺宮城県仙台市陸奥国分寺跡
陸奥国分尼寺宮城県仙台市(陸奥国分尼寺跡
一宮鹽竈神社(宮城県塩竈市
都々古別神社福島県東白川郡棚倉町内に2社)
テンプレートを表示

陸奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。現在の福島県宮城県岩手県青森県秋田県の一部(鹿角郡)。等級区分で大国の一つ。

明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。
概要

当初は「道奥」(みちのおく)と呼ばれ、平安時代まで「陸奥」(みちのく)とも呼ばれた。その後は「陸奥」(むつ)と呼ばれた。

畿内から見て山道(のちの東山道)と海道(のちの東海道)の奥に位置する。中央政権に新規に服従した地域を同国に含めていったため、時期によって範囲は変遷する。未だ服従しない北方の蝦夷(えみし)と接した。

明治元年12月7日西暦1869年1月19日)に5国に分割され、その1つとして、青森県と岩手県二戸郡にかけての地域に新たに「陸奥国」(りくおうのくに・むつのくに)が置かれた。
「陸奥」の名称と由来

古事記』には「道奥」とあり、『日本書紀』は「陸奥」が多いが古い時代に「道奥」もみられ、ともに「道奥」を「みちのおく」と訓じる。『和名抄』は「陸奥」を「みちのおく」とする。「道」は古い時代には「国」と同義に使われており、「道奥」の語源は「都からみて遠い奥」にある国の意である。「道」を「陸」にかえた積極的理由はわからないが、常陸国の場合と同じく、「陸道」の意であてたものであろう。平安時代の和歌で「陸奥」は「みちのく」として詠まれていた。「みちのく」は「みちのおく」が訛って縮まったものである。

「みちのく」が「むつ」に変わった事情には、江戸時代から二説ある。一つは陸が六の大字として用いられることをふまえて、陸を六と書き、それに訓読みをあてて「むつ」にしたというもので、本居宣長が『古事記伝』で唱えた[1]。陸州は古代・中世によく使われた略し方で、「六奥国」「六奥守」「六国」という書き方も平安時代にはあった[2]。もう一つは「みちのく」が「みちのくに」になり、「むつのくに」に転訛したという説で、保田光則『新撰陸奥風土記』にある[3]。「みちのくに」は『伊勢物語』などに見える。
沿革
「道奥国」設置と当時の領域7世紀末から712年までの陸奥国

初め道奥(みちのおく)といい、『常陸国風土記』には孝徳天皇在位の末年(654年)に、足柄峠の東方に常陸国を始め8国を置いたとの記述があり、この8国の中に道奥が含まれると解されている。現在の東北地方のうち徐々に律令国家日本に編入された地域、すなわち宮城県松島以南までの広大な領域を暫定的に含む辺境の大国であった。

常陸国から分離される形で成立し、以後、平安時代まで陸奥(みちのく)と呼ばれた。7世紀の設置時の範囲は、およそ現在の宮城県の中南部、山形県の内陸部、福島県のほぼ全域、茨城県の北西部に相当し、内陸盆地のみならず、阿武隈高地以東に位置する太平洋沿岸である福島県浜通り(旧磐前県)や宮城県沿岸部も含まれていた。

宮城県域 : 松島丘陵以南の全域

仙南平野(仙台平野の南半分)

阿武隈川流域の盆地群(刈田郡伊具郡


山形県域 : 内陸部(奥羽山脈の西側盆地群の全て)

最上地方新庄盆地。当時の最上郡。9世紀に分割されて村山郡となる)

村山地方山形盆地。当時の最上郡。太閤検地以降村山郡と郡名が入れ替えとなる)

置賜地方米沢盆地。当時の置賜郡


福島県域 : 東南の隅の菊多郡(現在のいわき市南部)を除いた全域。

中通り

会津地方

浜通り


茨城県域 : 内陸部

久慈川の上流域(久慈郡大子町全域茨城県大子町と常陸大宮市諸沢・西野内・北富田。依上郷を経て依上保と呼ばれる区域[4]

6世紀までに存在した陸奥の国造は、道奥菊多国造(のちの菊多郡に相当)、石城国造(磐城郡)、染羽国造(締葉郡)、浮田国造(宇多郡)、思国造(思太の誤りか)、白河国造(白河郡)石背国造(磐瀬郡)、阿尺国造(安積郡)、信夫国造(信夫郡)、伊久国造(伊具郡)の10国造であり、いずれも成務朝から応神朝神別氏族が派遣されて設置されたと見える(「国造本紀」)。孝徳朝の後半に第二次の使者が派遣されて、国造制が制へと変わり、道奥国(みちのおくくに)が設けられた。
律令制下の陸奥国718年から数年間の陸奥国

大宝律令成立直後に出された賦役令調庸物条に関する民部省(『令集解』所収)に記載された諸国の配列が下野国の次に陸奥国、すなわち東山道の位置に置かれている。この式の発令時期については、大宝年間説と和銅年間説があるものの、遅くても8世紀初頭には陸奥国が東山道に所属していることが判明する[5]

和銅5年(712年)に、最上川流域の最上郡(最上地方および村山地方)と置賜郡(置賜地方)を越後国から分離独立した出羽国(現在の庄内地方)に譲ったため、陸奥国は上述の宮城県域と福島県域と茨城県域になった。

養老2年(718年)に、陸奥国は、陸奥国・石城国石背国の三つに分割された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:77 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef