陸上競技日本代表
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陸上競技日本代表(りくじょうきょうぎにほんだいひょう)は、日本陸上競技連盟によって編成される国家代表として、オリンピック世界陸上競技選手権大会などの各大会へ派遣実績がある。陸上競技日本代表と各大会の関係、メダル獲得数・メダリストについて説明する。
歴史

1908年ロンドンオリンピックまで近代オリンピックは4回の開催を行った。国際オリンピック委員会 (IOC) は日本の参加を求めていた。こうした中、1909年のIOC総会で嘉納治五郎がIOC委員に選出された。日本は1912年ストックホルムオリンピックへ参加を打診され、1911年の大日本体育協会設立やオリンピック予選会開催など準備を行った[1]。この結果、嘉納治五郎団長、大森兵蔵監督と、陸上競技の三島弥彦金栗四三の選手2名合計4名が1912年ストックホルムオリンピックの日本選手団として参加した。三島は100m・200m1次予選敗退、400m準決勝棄権。金栗はマラソンに出場して棄権の結果となった。こうして陸上競技日本代表の歴史が始まった。日本は1913年にマニラで始まった第1回東洋オリンピック、後の極東選手権競技大会にも代表選手を派遣した。1920年代に入ると女子選手の国際大会参加が認められるようになった。1924年7月に大日本体育協会が国際陸上競技連盟 (IAAF) に加盟。1925年に全日本陸上競技連盟が組織され、全日本陸連は1928年に大日本体育協会に代わる統括団体としてIAAFに承認された。1928年アムステルダムオリンピックでは男子三段跳の織田幹雄がアジア選手初の金メダルを獲得、日本人女子選手として初めてオリンピックに参加した人見絹枝は女子800mで銀メダルを獲得した。オリンピック男子三段跳はアムステルダムの織田に続いて、1932年ロサンゼルスオリンピック南部忠平1936年ベルリンオリンピック田島直人が優勝を飾り、日本代表は3大会連続で金メダルを獲得した。

第二次世界大戦後、1945年に日本陸上競技連盟が組織された。日本は1948年ロンドンオリンピックへの参加が認められず不参加。日本はIAAFから除名処分を受けていたが[2]、1950年に復帰が認められた。日本は1951年にニューデリーで第1回大会が開催されたアジア競技大会に参加、陸上競技も代表選手を派遣している。日本は1952年ヘルシンキオリンピックでオリンピックへの復帰が叶い、陸上競技も男子16名・女子3名の選手が参加した。日本は1964年東京オリンピックを開催、陸上競技では男子マラソンの円谷幸吉が銅メダルを獲得した。日本は1973年にマニラで第1回大会が開催されたアジア陸上競技選手権大会に代表選手を派遣、以来参加を続けている。日本は1980年モスクワオリンピックに不参加。日本は1983年にヘルシンキで第1回大会が開催された世界陸上競技選手権大会に代表選手を派遣、以来参加を続けている。また同大会は1991年に東京で第3回大会を開催し、この時女子マラソンで山下佐知子が同選手権日本人初のメダルとなる銀メダルを、男子マラソンで谷口浩美が同選手権日本人初の金メダルを獲得した。2000年シドニーオリンピックでは女子マラソンの高橋尚子が日本人女子陸上競技選手初の金メダルを獲得し、後に国民栄誉賞を受賞。2004年アテネオリンピックは男子ハンマー投の室伏広治と女子マラソンの野口みずきが優勝し、女子マラソンは日本代表が2大会連続で金メダルを獲得した。世界陸上競技選手権大会は第3回大会の谷口浩美以来、第4回大会女子マラソンの浅利純子第6回大会女子マラソンの鈴木博美第13回大会男子ハンマー投の室伏広治が優勝を飾り金メダルを獲得した。
出場大会
国際オリンピック委員会主催


オリンピック

ユースオリンピック

国際陸上競技連盟主催


世界陸上競技選手権大会

世界室内陸上競技選手権大会

世界クロスカントリー選手権大会

世界ハーフマラソン選手権大会

世界競歩チーム選手権大会

IAAFコンチネンタルカップ


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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