凡例陶 興房
時代戦国時代
生誕文明7年(1475年)
死没天文8年4月18日(1539年5月6日)
改名興房、道麒・道鱗(法号)
別名次郎
戒名大幻院殿透麟道麒大居士
墓所建咲院
陶 興房(すえ おきふさ)は、戦国時代の武将。周防国の戦国大名大内氏の重臣。 文明14年(1482年)、父が暗殺される(大内山口事件 家督継承後、義興に従って各地を転戦する。畿内で行われた船岡山の戦いに従軍し、また出雲の尼子経久との戦いで軍功を重ねた。 大永4年(1524年)、大内義興・義隆父子に従って安芸に出陣し、義隆の別働隊に従って安芸武田氏の佐東銀山城を攻めた。しかしこの時は武田氏の救援に来た毛利元就の攻撃を受けて敗北している[1][2]。 享禄元年(1528年)12月の義興の死後は、その嫡子・大内義隆に仕えた。大内家では当主の交代の際に常に一族や家臣団による権力闘争が発生していたが、義隆の時には興房の補佐並びに徳望により、この手の争いが起こらず平和裏に当主交代が行なわれている[3]。 義隆時代の初期は北九州方面への勢力拡大が行なわれ、北九州を任されていた杉興運が享禄3年(1530年)8月の田手畷の戦いで少弐氏に大敗したため、天文元年(1532年)11月に大軍を率いて長門から九州に渡海し、大友義鑑・少弐資元らと対峙した。この興房率いる大内軍には杉興運や仁保隆重
生涯
家督相続
大内義興の時代
大内義隆の時代
天文5年(1536年)には義隆の命令で再度肥前に侵攻して多久城を包囲し、9月に少弐資元を自刃させ、少弐氏を一時滅亡へ追いやった[7]。
天文8年(1539年)4月18日に死去[3]。享年65。次男の陶隆房(陶晴賢)が家督を継いだ。生前に譲っていたとする説もある。 大内家臣団の中で戦功随一とされる名将だが、和歌にも優れた教養人という一面もあり、公卿の飛鳥井雅俊らとも交流があった。 船岡山の戦いでは、「先陣になれば敵の兵、全て葬ってさし上げよう」と言った尼子経久に対し、興房が「大内軍は夜襲は苦手でな」と述べて経久を退けたという。 九州では大友氏や少弐氏にしばしば苦戦を強いられたが、最終的には少弐氏を一時滅亡へ追いやる武功を挙げた。また大友軍と戦った勢場ヶ原の戦いは大友軍の戦略的勝利とされるが、この戦いで興房は虚報を流して大友軍を翻弄し一時大勝を収め、そのことから「戦術的には引き分け」と評される。
人物・逸話