凡例陶 晴賢 / 陶 隆房
『続英雄百人一首』「陶尾張入道全薑」
時代戦国時代
生誕大永元年11月14日(1521年12月12日)[1][2]
死没天文24年10月1日(1555年10月16日)
改名陶隆房(初名)→晴賢→全姜
別名仮名:五郎
戒名卓鍼軒呂翁全姜
墓所洞雲寺(広島県廿日市市)
官位従五位上尾張守
幕府室町幕府
主君大内義隆→義長
氏族多々良姓大内氏流問田氏→多々良姓大内氏流陶氏
父母父:問田興之
陶 晴賢(すえ はるかた) / 陶 隆房(すえ たかふさ)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。
晴賢と名乗ったのは、天文20年(1551年)に主君・大内義隆を討ち、大友晴英(後の大内義長)を当主に据えてから厳島の戦い前に出家するまでの数年間だけであり、それまでは初名の隆房を名乗っていた(以下、本項ではその当時の名乗りに合わせて記述する)。 大永元年(1521年)11月14日卯の刻に出生[1][2]。 長らく陶隆房(晴賢)は陶興房の次男として生まれたとされてきたが、吉田兼右の日記である『兼右卿記』のうち、天文11年(1542年)に兼右が周防国に下向した際に記した『防州下向記
生涯
出自
また、陶興房には実子として陶興昌がいたが、享禄2年(1529年)4月に死去していることから、実子である興昌の死により、興房の外甥にあたる隆房が興房の養子として迎えられたと考えられている[2]。 隆房が養子となった陶氏は周防国の戦国大名・大内氏の庶家・右田氏の分家であり、周防国守護代を務める大内氏の重臣の家柄であった。また、少年時は美男として知られ、そのため大内義隆の寵童として重用された。また、陶氏には代々の当主が本家・主君にあたる大内氏当主より一字拝領するという慣わしがあり、元服時には義隆の偏諱を受けて、隆房(たかふさ)と名乗った(弟の隆信
家督相続
天文5年(1536年)6月以前に養父・興房から家督を相続し[3]、天文6年(1537年)には従五位下に叙位されている。天文8年(1539年)、養父・興房が死去。 天文9年(1540年)、出雲国の尼子晴久が吉田郡山城を攻めたとき、毛利元就の援軍として主君・義隆から総大将の権限を与えられ、天文10年(1541年)1月に尼子軍を撃退するという功績を挙げた(第1次吉田郡山城の戦い)。 天文11年(1542年)には逆に尼子領に侵攻するが、この出雲遠征における月山富田城攻め(第一次月山富田城の戦い)には失敗し、大内晴持をはじめとする多数の死傷者を出して大敗した。以後、義隆は軍事面に興味を示さなくなり文化に傾倒、文治派の相良武任の台頭を招く。この事態に武断派の隆房は影響力を失ってゆき、さらに武任を重用する義隆とも不仲になってゆく。 天文14年(1545年)、義隆に実子・大内義尊が生まれたことを契機に、隆房は武任を強制的に隠居に追い込み、大内家の主導権を奪還する。 天文17年(1548年)に義隆が従二位に叙位されると、従五位上に昇叙された。
大内家臣時代