陶侃
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陶侃

陶 侃(とう かん、永安2年(259年)- 咸和9年6月13日[1]334年7月30日))は、中国西晋東晋の武将。は士行。?陽郡?陽県の人。父はの揚武将軍陶丹。母は湛氏。陳寅恪などは、五渓蛮の出身であると主張している[2][3]。東晋初期を代表する名将であり、武廟六十四将にも選出されている。
生涯
若き日

呉が西晋に降伏した後、家族と共に廬江郡尋陽県に移り住んだ。若くして父が死去した為に家は貧しかった。陶侃の母湛氏は、機織で生計を立て、陶侃に勉強をさせた。また、道徳修養を非常に重んじた。陶侃は成長すると県の役人となった。

ある時、?陽の孝廉である范逵は雪の降り積もる日に陶侃の家を訪問した。だが、突然の来客であった為、陶侃にはもてなす物が何も無かった。彼の母は自分の長髪を切って二つのかつらを作ると、それを酒や料理と換えた。范逵は存分に酒を飲んで大いに楽しみ、彼の従者もかつてないほどの接待を受けた。范逵が家を離れる時、陶侃は彼を百里余り先まで見送った。その時范逵は「君は郡に仕える気はあるかね」と尋ねると、陶侃は「仕えたいと思いますが、推薦してくれる人がおりません」と言った。范逵は廬江郡太守張?に接見すると、陶侃を全力で賞賛した。張?は彼を召し出して督郵に任じ、樅陽県令を兼任させた。

在任中、才能があったため著名となり、主簿に昇進した。ある時、州部の従事が郡の視察に訪れ、手違いや誤りを粗探しして官吏を処罰しようとした。陶侃はこれを聞くと門を閉じるよう命じ、これを各々の役人へ厳重に言い聞かせた。そして、従事へ「もし我が郡に誤りがあれば、我自らが法に従って処置を行っております。このような行いはあなたがすべきことではありません。もし今後も無礼な態度を取り続けるのであれば、私にもあなたと相対する準備があります」と通告すると、従事はすぐに退去した。

張?の妻が病気にかかり、数百里先の医者を迎えに行かなければならなくなった。この時、大雪のために外は極寒であり、主簿を始めとした役人達はみな行くのを躊躇った。だが、陶侃だけは「子は父に尽くし、臣下は主君に尽くすのが忠義である。太守の夫人は我らの母上に等しい。父母が病にあって心を尽くさない子女がどこにいるというのだ」と言い、自らが行くことを求めると、人々はみなその義理堅さに感服した。

長沙郡太守の万嗣は廬江を通りかかった時に陶侃と会うと、彼を心から敬い称え「君は最後には大いに名をあげるであろう」と言い、自分の子を陶侃と交友させた後に別れた。
洛陽へ

後に、張?は陶侃を孝廉に推挙した。陶侃は洛陽に到着すると、何度か張華に拝謁した。だが張華は初め、彼の事をただの遠方の辺鄙な地から来た人として扱い、あまり相手にしなかった。しかし、陶侃は何度も彼の下を訪れ、扱いの悪さにも顔色一つ変えなかった。後に張華は陶侃と語り合うようになり、彼の才知に大いに驚いたという。その後、郎中に任じられた。

伏波将軍の孫秀(司馬倫の側近とは別人)は孫呉の宗室であったが、名望は高くなかった。そのため、北方の士族は彼の属官になる事を恥と考えていた。孫秀は、陶侃が寒門の出であったことから、彼を召し出して舎人とした。

当時、豫章国郎中令であった楊?は陶侃と同郷で、郷里での評判高い人物であった。陶侃が彼の下を訪れると、楊?は「易経では『節操をかたく守り方正であるならば、事を成し遂げるには十分である』と言うが、陶士行はまさにそのような人物であるな」と称えた。そして、陶侃と共に車に乗ると、彼を江南名士である中書郎の顧栄に引き合わせた。顧栄もまた彼を大変優れた人物だと評価した。吏部郎の温雅は楊?に「汝はどうしてそのような小人と車に乗り合わせているのかね」と問うと、楊?は「彼は非凡な才を持った人物ですぞ」と反論した。

清談の指導者であった尚書の楽広は荊州揚州の名士と議論を交わそうと思い人を集めると、武庫令の黄慶は陶侃を薦めた。これに反対する者が何人かいたが、黄慶は「この人の前途は遠大である。何も疑うことは無い」と断じた。後に黄慶が吏部令史に昇ると、彼は陶侃を推挙した。これにより、陶侃は武岡県令となった。しかし、太守の呂岳と不仲となり、官位を捨てて郷里に帰った。後に、郡の小中正となった。
反乱鎮圧

太安2年(303年)、義陽の賊である張昌が各地の流人を集め、江夏で挙兵した。張昌は江夏を攻め下すと、一月の間に3万の兵が集まった。張昌は快進撃を続けて荊・江・徐・揚・豫の五州を席巻した。朝廷は大いに震えあがり、劉弘南蛮校尉荊州刺史に任じて鎮圧に当たらせた。劉弘は着任すると、陶侃を招聘して南蛮長史・大都護に任じ、軍の先鋒として襄陽に向かわせた。

7月、陶侃は参軍の?桓・皮初と共に、竟陵にいる張昌を攻撃した。陶侃は張昌と幾度も交戦を繰り広げ、遂に大勝して数万人を斬り殺した。張昌は下雋山へと逃亡し、残兵は全て投降し、乱は鎮圧された。劉弘は感嘆して陶侃へ「我がかつて羊公(羊?)の参軍であった時、羊公は『我の後には君がその地位に至るだろう』と言ってくださった。今、汝を観察するに、汝こそが我の後を継ぐ者であるな」と称えた。

後に戦功により東郷侯に封じられ、千戸の食邑を与えられた。

永興2年(305年)、揚州刺史の陳敏は、北方が大乱の最中にあり朝廷には江東を統制する力がないと見て、揚州において挙兵した。さらに、弟の陳恢を江西へ派遣し、武昌を攻撃させ、江南一帯の占拠を目論んだ。劉弘は陶侃を江夏郡太守、鷹揚将軍に任じ、陳恢の迎撃に当たらせた。陶侃の立ち居振る舞いには威厳が備わっていた。また、出発前に母を官舎に招き入れると、郷里の人はこれを栄誉であると称えた。陶侃は軍を進めると、陳恢軍の攻勢を阻んだ。

隨郡内史である扈懐は、劉弘の面前で陶侃を讒言し「陶侃は陳敏と同郷の誼があり、郡太守の地位にあって強兵を統領しております。もし彼に異心があれば、荊州の東大門は既に失陥したも同じです」と説いたが、劉弘は「陶侃は忠義に篤く実直であり、才知に長けている。我はずいぶん古くから彼の事をよく理解している。どうしてそのような考えを抱くというのか」と言い、取り合わなかった。このことが陶侃の耳に入ると、直ちに子の陶洪と兄の子の陶臻を劉弘の下に人質として送り、劉弘へ自らの忠誠を伝えた。だが、劉弘は彼らを参軍に任じると、恩賞を与えて陶侃の下へ返してやった。その去り際に「賢叔(陶侃のこと)は出征に出ており、祖母は高齢であるから、汝らは帰るべきだ。田舎の匹夫でも互いに付き合えば裏切らないというのに、ましてやそれが大丈夫であるならなおさらであろう」と話した。

劉弘は陶侃に督護を加えると、諸軍と合わせて陳恢を迎撃させた。陶侃は輸送船を軍艦として戦に用いようとしたが、これに難色を示す者がいた。陶侃は「官船を用いて官賊を討つことに、一体何の問題があるというのか」と反論した。陶侃は陳恢と交戦すると、幾度もこれを討ち破った。さらに、皮初・張光・苗光と共に、長岐において陳敏配下の銭端を破った。陶侃の軍は厳粛であり整然としており、戦利品はすべて士卒に分配し、私腹を肥やすことは無かった。
東晋政権に帰順

永興3年(306年)、恩師の劉弘が病死した。間もなく陶侃の母湛氏も病死したため、辞職して喪に服した。喪が明けると東海王司馬越の参軍となった。江州刺史華軼は上表して陶侃を揚武将軍とし、夏口の守備を任した。また、甥の陶臻は江州の参軍に任じられ、同じく華軼に仕えた。だが、華軼は琅邪王司馬睿(後の東晋の元帝)と対立していたため、陶臻は災難を被ることを恐れ、病気と偽り職を辞した。そして、陶侃の下へ至ると「華彦夏(華軼の字)には天下を憂う大志がありますが、大きな才覚はありません。また、琅邪王とは対立しており、まもなく災禍が訪れるでしょう」と語った。陶侃は激怒して陶臻を華軼の下へ送還したが、陶臻は隙を見て東へ逃走して司馬睿の下へ至った。司馬睿はこれを大いに喜んで彼を参軍に任じた。陶侃もまた奮威将軍に任命され、赤幢・曲蓋のある?車・鼓吹を下賜された。これにより、陶侃と華軼は不仲になった。

永嘉5年(311年)、司馬睿の命により、王敦甘卓周訪を率いて河沿いに進軍して華軼を攻撃し、華軼は敗れて討死した。その後、陶侃は龍驤将軍・武昌郡太守に任じられた。当時、天下は大いに乱れており、武昌でも山中の蛮族が長江で船舶を遮り、略奪を繰り返していた。陶侃は諸将に命じて商船に偽装し、山賊を誘い出させた。賊が予想通り接近してくると、数人を生け捕りにした。彼らを尋問すると、西陽王司馬?の配下であることが分かった。陶侃はすぐに軍を派遣して司馬?へ賊を引き渡す様に迫り、自ら兵を率いて釣台に陣地を築いて後続となった。司馬?は止むを得ず配下二十名を縛り上げて陶侃のもとに送り、陶侃はこれを斬り殺した。これにより、水陸の交通は滞りなく通じるようになった。また、陶侃のもとに帰した流浪者が道にあふれたため、陶侃は資財を尽くして彼らに施しを行い、安心して定住できるよう取り計らった。さらに、郡の東に異民族と交易するための市場を設立し、莫大な利を得た。
杜?との攻防

この時期、司馬睿は江州を勢力下に収めていたが、その上流に当たる荊州・湘州の大部分は杜?率いる流民の蜂起によって占拠されていた。司馬睿は陶侃に杜?討伐を命じ、振威将軍の周訪と広武将軍の趙誘をその指揮下に置いた。陶侃は二将を前鋒とし、兄の子である陶輿を左翼に配置して杜?を攻撃し、これを破った。

建興元年(313年)、荊州刺史のは潯水城で杜?の兵に包囲された。陶侃は配下の朱伺を救援として派遣し、杜?は?口まで退いた。陶侃は諸将に対し「賊は必ずや陸路より武昌に向かうであろうから、我は城に還らねばならぬ。昼夜を徹すれば三日で行くことができるが、卿等の中でこの飢えに耐え得る者はいるか」と問うと、武将の呉奇は「もし十日飢えを凌ぐ必要があるならば、昼に賊を撃ち、夜には魚を捕れば、双方とも事足ります」と言ったので、陶侃は「卿こそ勇健なる将軍である」と喜んだ。陶侃は近路を通って迅速に行軍し、武昌に到着すると周囲に兵を伏せた。果して賊軍は兵を増して攻め寄せてきたが、陶侃は伏兵の朱伺らに一斉に反撃させ、これを大破した。これにより輜重を奪い、多数の敵兵を殺傷した。陶侃は参軍の王貢を派遣し、王敦へ戦勝報告をさせると、王敦は「もし陶侯がいなければ、すぐに荊州を失っていたであろう。伯仁(周の字)は荊州に着任した途端に、賊軍に敗れおった。


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