陳璧君
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陳璧君
当時20歳の陳璧君
プロフィール
出生:1891年11月5日
光緒17年10月初4日)
死去:1959年6月17日
中華人民共和国上海市
出身地: イギリス海峡植民地ペナン島
職業:政治家
各種表記
繁体字:陳璧君
簡体字:?璧君
?音:Chen Bij?n
ラテン字:Ch'en Pi-chun
和名表記:ちん へきくん
発音転記:チェン ビージュン
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陳 璧君(ちん へきくん、1891年11月5日 - 1959年6月17日)は中華民国の女性政治家。中国国民党国民政府に属し、南京国民政府でも高官を務めた。は冰如。祖籍は広東省広州府新会県。夫は汪兆銘
事跡
汪兆銘との出会いと革命運動への参加

南洋華僑の富裕な商人の家庭に生まれる。1907年光緒33年)、英領マラヤ(現、マレーシア)のペナン島を訪問した汪兆銘と知り合ったことが契機となり、1908年(光緒34年)に中国同盟会に加入し、シンガポール孫文と対面した。その後は汪兆銘とともに帰国し、中国同盟会の機関誌『民報』編集にもたずさわった[1]1909年、汪兆銘を囲んで陳璧君、方君瑛、曾醒、黎仲実の4人が、同志として生死をともにすることを誓い合った[1]。この5人は、のちに広東省に共同の墓を建てており、このころ、汪兆銘と陳璧君は名義上の結婚をしたと考えられる[1]

1910年宣統2年)、ミハイル・バクーニンなどアナーキズムの直接行動主義の影響を受けた汪兆銘は、黄復生・喩紀雲・陳璧君らの同志とともに北京において清朝要人の暗殺計画にとりかかった[2]。イギリス領に育った陳璧君は英語が堪能であり、英語で記された時限爆弾の取扱書を読めるという理由で、この計画に参加した[1]。標的となったのは、宣統帝の父摂政王載灃であった[1][2]。しかし、1910年宣統2年)4月、計画が露見して清朝当局の捜査を受け、汪と黄復生は逮捕され、両名に無期懲役の判決が下された[1][2]。陳璧君は汪兆銘を救出すべく香港を拠点に活動を行い、また、獄中の汪兆銘に何度も手紙を書き送っている[2]
汪兆銘とともに陳璧君と汪兆銘(1912年頃、ペナン島にて)。

1911年(宣統3年)11月、辛亥革命のさなか、汪兆銘は釈放された[1]1912年民国元年)、陳璧君は汪兆銘と結婚式を挙げた[1]。司会は胡漢民、花嫁介添人は何香凝であった。同年8月、正式に夫婦となった2人は新婚旅行も兼ねて、「修養」のためのフランス留学に旅立った[1]。汪と陳の夫妻は、パリ郊外のモンタルジに居を構え、家庭教師からフランス語を習い、フランス文学社会学を学びながら、書籍を読んだり翻訳して過ごした[2][1]。ときどき中国に帰国したもののほぼ5年間をヨーロッパで暮らしたが、ヨーロッパには、陳璧君の弟陳昌祖、同志方君瑛とその妹方君璧、同志曾醒とその弟曾仲鳴などが勉学を兼ねて同行した[1]。この生活のなかで長男の汪文嬰が1913年、長女の汪文惺が1914年、それぞれフランスで生まれている[1]

1917年(民国6年)、孫文の護法運動に参加するため、2人は帰国し、陳璧君も夫を助けて政治活動や教育振興などにたずさわった。1920年、次女の汪文彬が生まれている。1921年、汪兆銘は孫文の中華民国正式政府の広東省教育会会長の就任を承諾し、ようやく公職に就いた[2]。これを機に、汪の長い「修養の時代」は終わり、以後、中国国内政治の表舞台に立つこととなった[2]1922年には三女の汪文恂が生まれている。

1923年6月、汪夫婦にとっては革命の同志であり、ともにヨーロッパで学んだ方君瑛(汪の腹心曾仲鳴の夫人方君璧の姉)が自殺している[1]。彼女は、ボルドー大学で数学を学び、中国人女子留学生として初の博士号を取得した才女であった[3]。また、同年9月には学校設立のために在米華僑から募金を集めるためアメリカ合衆国に渡った汪夫妻が、その地で次男をもうけたが、1か月足らずで肺炎のため亡くしてしまった[1]

1924年(民国13年)1月、広州でひらかれた中国国民党第一回全国大会では、ソ連の制度を模倣した中央執行委員会の体制がつくられ、中央執行委員は総員24名で、汪兆銘・胡漢民・廖仲トなどのほか、李大サら3名の共産党員が含まれていた[4]。また、中央執行委員候補17名中、共産党員は毛沢東ら7名に及ぶ国共合作の政策が採られた[4]。汪は、孫文の側近として個人的連絡係のほか、国民党中央執行委員会委員・宣伝部長の要職につき、胡漢民とともに党の双璧となった[1][4][5]。党の改組と同様に重要なのは、党の軍隊の創設であった。孫文はソ連の赤軍のように思想的に武装した党軍(国民革命軍)の必要性を痛切に感じており、廖仲トを党代表に選び、1924年5月、?介石黄埔軍官学校準備委員長に命じた[1][4]。?をこの学校の校長にと強く推薦したのは陳璧君だったといわれる[1]

1925年(民国14年)、北京で孫文が病に倒れた際は、汪兆銘が政務を処理し、陳璧君が孫文を看病する宋慶齢夫人を支えた。同年3月の孫文の死去に際しては、夫の汪兆銘は「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」との一節で有名な遺言(孫文遺嘱)を記した[1][3]。汪はこれを、病床にあった孫文から同意を得たと伝えられており、?介石の義兄にあたる宋子文、孫文の子息孫科呉稚暉何香凝らが証明者として名を連ね、遺書には汪兆銘が「筆記者」として筆頭に記されている[1]

孫文死後の1926年(民国15年)1月、広州での中国国民党第2回全国代表大会で、陳璧君は中央監察委員、常務委員に選出された。夫の汪兆銘は他者をおさえて中央委員第一位に当選し、国民政府主席兼軍事委員会主席の地位に就き、名実ともに国民党の指導者となった[1]


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