陳牧
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陳 牧(ちん ぼく、? - 25年)は、中国代の武将。平林軍の頭領で、後に更始帝(劉玄)政権の重鎮となる。荊州南陽郡平林県の人。
目次

1 事跡

1.1 平林軍頭領

1.2 更始帝により誅殺


2 参考文献

3 関連項目

事跡
平林軍頭領

姓名陳牧
時代

生没年生年不詳 - 25年更始3年)
字・別号〔不詳〕
本貫・出身地等荊州南陽郡平林県
職官〔平林軍頭領〕→大司空〔更始〕
爵位・号等陰平王〔更始〕
陣営・所属等〔独立勢力〕→更始帝
家族・一族〔不詳〕

地皇3年(22年)に、陳牧は同郷の廖湛と共に千人余りの兵を集め、「平林軍」と号し、王匡らの新市軍に呼応した。この時、劉玄も平林軍に安集掾として加わっている。

さらに劉?率いる舂陵軍とも連合して宛を目指して進軍したが、連合軍は小長安聚(南陽郡育陽県)の戦いで新の前隊大夫(新制の南陽太守)甄阜、属正(新制の都尉)梁丘賜に敗北した。翌地皇4年(23年)正月、王常率いる下江軍とも合流し、?水の戦いで甄阜、梁丘賜を討ち取った。

その後、連合軍においては、劉?と平林軍出身の劉玄とのいずれを天子として擁立するかが、諸将の間で議論となった。この際に、南陽の士大夫(舂陵の諸将など)と王常は劉?、陳牧らその他の諸将は劉玄を推している。結局劉?は、分裂を避けるために、劉玄にその地位を譲った。こうして更始1年(23年)2月、劉玄は更始帝として即位し、陳牧は大司空に任命された。翌更始2年(24年)2月に、劉玄が長安へ遷都すると、陳牧は陰平王に封じられている。
更始帝により誅殺

更始3年(25年)、赤眉軍が長安を目指して西進してくると、陳牧は更始帝の命で同僚の王匡、成丹趙萌と共に新豊(京兆尹)に駐屯し、これに備えた。ところが長安城内で張?らが兵変を起こし、更始帝は新豊へ逃亡してくる。猜疑心を募らせた更始帝は、姻戚である趙萌以外の新豊の諸将も張?の一味ではないかと疑った。そして、陳牧、成丹を呼び出し、これに応じた2人をまとめて誅殺してしまったのである。驚き恐れた王匡は、長安の張?を頼って逃走した。

少なくとも史書の記述からは、陳牧や成丹が張?に通じていたという事実は窺えず、おそらくは無実の罪での誅殺だったと思われる。いずれにしても、政権の重鎮、ましてやかつての自分の主君を自らの手で葬り去った更始帝は、さらに自滅への道を突進することになった。
参考文献

後漢書』列伝1劉玄伝

同列伝4斉武王?伝

関連項目

新末後漢初


更新日時:2018年5月9日(水)09:58
取得日時:2018/12/22 15:09


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