陳廉伯
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陳 廉伯

生誕1884年10月21日
広東省広州府南海県西樵簡村
死没 (1944-12-24) 1944年12月24日(60歳没)
大日本帝国香港
国籍 イギリス帝国
職業商人、広州商団団長
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陳 廉伯(ちん れんはく、中国語: ?廉伯、1884年10月21日 - 1944年12月24日)とは、朝時代の中国やイギリス領時代の香港で活躍したイギリス国籍の商人である。祖籍は広東省南海県西樵簡村(現・広東省仏山市南海区)にある。は朴庵[1][2]。作漕とも呼ばれる[2]。広州商団団長であり、商団事件(中国語版)の首謀者である。買弁としても知られており、日本占領時期の香港において日本軍に協力した。
生涯
出生から富豪へ

陳は広東省広州府南海県西樵簡村にて誕生した[2]。祖父は東南アジアから帰国した華僑[2]、中国初の機械式紡績工場を設立した陳啓?(中国語版)であり[1]、父親の陳蒲軒は裕福な商人であった[2]。蒲軒には、廉伯、廉仲(中国語版)、汝恭、蒲生と4人の息子がおり、廉伯は長男であったものの、幼少期から同族で2番目の叔母へ養子に出されていた[2]

陳は最初に私立学校に入学し、1896年、陳が12歳のとき、祖父の影響で外国人と英語を学び、香港の皇仁書院を卒業し、イギリス国籍(英語版)を取得した[2]。卒業後は広州に戻り[1]1900年、陳が16歳のとき、広州市の沙面島にある香港上海銀行(HSBC)広州支店にて勤務し始め、機転が利き聡明である上に英語が流暢であったため、重用され買弁へと昇格した[1][2]。同時に実家の家業を継ぎ[1]1905年から絹糸メーカー「昌桟糸庄」のマネージャーを務め、広東商会や広州商務総会へ次々と加入し、これらの商工会議所で活躍した[2]1908年には、東南アジアの商人であった張弼士(中国語版)等と共に「広東保険公司」を設立し、助役を務めた[1][2]。同時に広州の主要な絹商人に統一価格での購入と販売を依頼し、広州の生糸の販売を独占した[1][2]。陳の生糸事業は急速に発展し、1910年には昌桟糸庄の資金が30万元に達した[2]

同年に発生したゴム株式恐慌(中国語版)[注 1]が広州に波及した際には、HSBCのローンを利用して利益を得たほかに、インゴットを利用した投機ビジネスも行った。その後、HSBCを利用し、私鋳銭銀貨を流通させ、金銀市場を操作した。絹産業以外にも、海運業鉱業製紙業茶業に加え、桐油、豚、タバコ、竹製品、ござ等の特産品製造事業も手掛け、これらの事業の利益は10年で数百万元に達した。これにより、陳は中国有数の金融王となり、袁世凱から予二等嘉禾勲章(英語版)が授与された[2]

1915年に、陳はサンフランシスコ万国博覧会に向けて準備を担当する「巴拿馬万国商品賽会広東出口協会」の責任者や広東総商会会長を務めた後、広東絲絹協会、鉱業協会、輸出業協会の会長を務めた[2]軍閥時代の真っただ中であり、旧広西派軍閥が広東省を占領していた1917年から1920年頃には、当時広東省長であった朱慶瀾や両広巡閲使兼督軍であった陸栄廷、海軍上将であった薩鎮氷らと交友を深めた[2]。また、広州市茘湾区龍津西逢源路沙地一巷36号に自宅を建てた[4]。この自宅には洋風邸宅の他に、洋風の別館、中華風庭園が造られた上、広州の産業界の第一人者らによって邸宅内に「茘湾倶楽部」が設立された[1]。この倶楽部には、陳炯明などの有力者も出入りしていた[5]
広州商団事件軍服姿の陳廉伯詳細は「広州商団事件(中国語版)」を参照

1911年辛亥革命が発生し、治安が悪化したため、治安維持と商人の生命・財産保護を目的に、1912年に広州商団が設立された[1][2]。陳は商団団長と広州粤商公安維持会(商団公所)理財課主任を兼任し、商団の経費を負担し、銃器の購入資金を借りた[2]。1917年には粤商公安維持会の代理評議長に就任し、商団の武装化を進めた[2]1919年8月に、正式に軍総団長に就任した[2]

1924年1月に行われた中国国民党第一次全国代表大会(中国語版)にて、中国国民党共産主義的政策を実行することを表明したため、商人階級は孫文率いる国民党を敵視するようになった[6]。5月20日から31日の間、広州市周辺の商団98団が参加した商団大会が開かれ、その大会にて、「広東省商団聯防総部」を広州市に設立すること、その総長に陳が、副総長に仏山商団団長であった陳恭受と広州商団副長であった鄭介石が選出されることが決議された[7]。8月4日頃、陳は商団が5月下旬にドイツに発注した武器約9000丁と弾薬約400万発がノルウェー船に積まれて広州に入港することを知り、陳はすぐに粤軍総司令であった許崇智の堂弟(父方の従弟)であった許崇?のつてで軍政部による輸入証明書を入手し、李福林(中国語版)や?軍に武器200丁を報酬に、武器の陸揚げを依頼した[8]。しかし、8日に入港を知った広東税関長により、船の拘留が行われ、10日に孫文が武器の差し押さえを決定した[8]。潮の影響により、船は12日に入港したものの、孫文から差し押さえるよう命じられた?介石は船を黄埔軍官学校正門前にある船着き場に繋留させ、武器1129箱を押収した[9]。このことを知った商団側は2000人以上で河南島にある大本営に向かい、武器の返還を請願し、拒否した場合は広東省全体の商店を閉鎖すると威嚇した[9]。しかし、孫文側はこれを拒否したため、商団軍は仏山市で代表を集めて大会を開き、各地でのストライキの実施を決定した[10]

8月24日に、陳は呉佩孚との結託やクーデターの計画、武器密輸、ストライキの扇動を理由に逮捕状が出された[10]。しかし、9月4日に行われた中央政治委員会にて孫文は北伐を決定し、胡漢民を広東省長代理に任命した後、13日の朝に特別列車で韶関市へと向かった[11]。その後、商団が国慶節である10月10日にストライキと武装パトロールを実施するという決議をしたことを知った孫文は、10月9日に胡へ李福林による調停案実行を指示する電報を打ったため、胡は商団に押収した武器の一部を返還したことで緊張が緩和された[12]


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