陳妙登
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陳妙登(ちん みょうとう、生没年不詳)は、南朝宋の明帝劉ケの貴妃(側室)。後廃帝劉cの母。本貫丹陽郡建康県
経歴

屠殺を生業とする陳金宝と王氏(永世県成楽郷君)のあいだの娘として生まれた。宋の孝武帝は日常的に尉司を派遣して、民間の子女で容色のすぐれた者を求めさせていた。妙登の家は建康県の境に位置し、家は貧しく、草屋が2、3間あるばかりであったので、孝武帝は銭3万を与えて、瓦の邸を建てさせた。妙登は12、3歳であったが、容姿の美しさから求められて、宮中に入った。2、3年のあいだ、路太后と同室に住みこんだが、孝武帝に寵愛されることはなかった。路太后が孝武帝に口添えして、妙登は劉ケに与えられた。劉cを産んだ。

泰始元年(465年)、明帝が即位すると、妙登は貴妃に立てられ、その礼秩は皇太子妃と等しかった。泰豫元年(472年)、4月に劉cが即位すると、その年の7月に妙登は皇太妃となり、弘化宮と称した。昇明元年(477年)、順帝が即位すると、妙登は蒼梧王太妃に降格された。
逸話

妙登は劉ケにとつぎ、はじめ劉ケの寵愛を受けたが、1年ほどして愛情が衰え、李道児に与えられた。まもなく再び迎えられて宮中に帰り、劉cを産んだ。庶民の間では劉ケは肥満から性的不能になったと噂し、このため劉cを李氏の子と噂した。劉cは後に李将軍を自称し、自ら李統と称することもあった。
伝記資料

宋書』巻41 列伝第1

南史』巻11 列伝第1


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