陰陽師
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この項目では、職業について説明しています。その他の用法については「陰陽師 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
江戸時代初期の奈良絵本『たまものまへ』より、算木で占いを行う陰陽師の画。京都大学附属図書館所蔵。

陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)は、古代日本律令制下において中務省陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人技官)として配置された者を指す。中・近世においては民間で私的祈祷や占術を行う者を称し[1]、中には神職の一種のように見られる者も存在する。
歴史
陰陽五行思想の伝来と陰陽寮の発足

陰陽師は全ての事象が陰陽と木・火・土・金・水の五行の組み合わせによって成り立っているとする殷(商)王朝時代にはじまり王朝時代にほぼ完成したと言われているがこれは伝説であって、中国古代の陰陽五行思想に立脚し、これと密接な関連を持つ天文学暦学易学時計等をも管掌した日本独自の職であるが、前提となる陰陽五行思想自体は飛鳥時代、遅くとも百済から五経博士が来日した継体天皇7年(512年)または易博士が来日した欽明天皇15年(554年)の時点までに朝鮮半島高句麗百済)経由で伝来したと考えられている。

当初はこれら諸学の政治・文化に対する影響は僅少であったものの、推古天皇10年(602年)に百済から觀勒が来日して聖徳太子をはじめとして選ばれた34名の官僚に陰陽五行説を含む諸学を講じると、その思想が日本の国政に大きな影響を与えるようになり、初めて日本において暦が官暦として採用されたり、仏法や陰陽五行思想・暦法などを吸収するために推古天皇15年(607年)にに向けて遣隋使の派遣が始められたりしたほか、聖徳太子の十七条憲法冠位十二階の制定においても陰陽五行思想の影響が色濃く現れることとなった。

その後、天武天皇壬申の乱の際に自ら?(ちょく、占いの道具)を取って占うほど天文(学)や遁甲の達人であり陰陽五行思想にも造詣の深かった事もあり、同天皇4年(676年)に陰陽寮や日本初の占星台を設け、同13年(685年)には「陰陽師」という用語が使い始められるなどしてから陰陽五行思想は更に盛んとなり、養老2年(718年)の養老律令において、中務省の内局である小寮としての陰陽寮が設置されたが、そこに方技として天文博士陰陽博士陰陽師暦博士漏刻博士が常置されることも規定されると、陰陽寮は神祇官に属する卜部亀卜(きぼく、亀甲占い)と並んで公的に式占を司ることとなった。

陰陽寮は四等官制が敷かれ、陰陽頭(おんみょうのかみ)以下の事務方である行政官と、技官として方技の各博士及び各修習生、その他庶務職が置かれたが、方技である各博士や陰陽師は大陸伝来の技術を担当するだけに、諸学に通じ漢文の読解に長けた渡来人、おしなべて中国本土の前漢後漢・代わって大陸覇権を握った隋、朝鮮半島西岸に勢力を有した高句麗・百済、まれに当初朝鮮半島東岸勢力であった新羅から帰来した学僧が任命され、方技は官人の子弟にとどまらず民間人からの登用も可能であった。

陰陽寮成立当初の方技は、純粋に占筮、地相(現在で言う「風水」的なもの)、天体観測占星、暦(官暦)の作成、吉日凶日の判断、漏刻水時計による時刻の管理)のみを職掌としていたため、もっぱら天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって予言するだけであって、神祇官や僧侶のような宗教的な儀礼(祭儀)や呪術はほとんど行わなかったが、宮中において営繕を行う際の吉日選定や、土地・方角などの吉凶を占うことで遷都の際などに重要な役割を果たした。

陰陽寮に配置されていた方技のうち、占筮・地相の専門職であった陰陽師を「狭義の陰陽師」、天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士を含めた全ての方技を「広義の陰陽師」と定義付けることができる。また、これ以降、この広義の陰陽師集団のことを指して「陰陽道」と呼ぶこともあった。
律令制下における陰陽師の待遇の変遷

律令制においては、陰陽寮の修習生に登用された者以外の一切の部外者(神官・僧侶はもちろん官人から民間人に至るまでの全て)が、天文・陰陽・暦・時間計測を学び災異瑞祥を説くことを厳しく禁止しており、天文観測や時刻測定にかかわる装置または陰陽諸道に関する文献についても、陰陽寮の外部への持ち出しを一切禁じ、私人がこれらを単に所有することさえ禁じていた。このため、律令制が比較的厳しく運営されていた平安時代の初期(9世紀初頭)まで、陰陽道は陰陽寮が独占する国家機密として管理されていたが、その後、時代の趨勢に合わせるために律令の細部を改める施行令である「」・「」がしばしば発布されるようになり、各省ともに官職の定員が肥大化する傾向を見せると、陰陽寮においても平安時代中期までに、かなりの定員増がはかられるようになり、その制度も弛緩した。

一般的に各省で方技(技官)がおしなべて位階を低めに設定されていた中で、陰陽寮の方技の官位は低目とはいっても各省管轄下の方技に比較すれば高めに設定されていた。ただ、陰陽寮が中務省の小寮であったため、当然ながら行政官である四等官の官位は本省のそれに比べて低めとなっており、後の平安中期で言う、昇殿して天皇に奏上できる仙籍と呼ばれるいわゆる殿上人従五位下格の陰陽頭のみであり、その他はすべて、後に昇殿を許されない地下官人であったらしい。

律令制定当初は、四等官と方技である各博士や陰陽師は厳密に区別して任命されており、後者にはもっぱら先進各国から渡来した学僧が任命されていた。これは、僧籍に属する学僧を俗世間の政権である朝廷に出仕させて自由に使役することは僧籍者に対する待遇上不可能であり、各博士または陰陽師に任命された学僧を行政官に就任させる際には勅令によって還俗(僧籍を脱して俗人に戻ること)させる必要があり、そのような勅令を乱発することもはばかられたためで、その代わりとして修習生である天文生・陰陽生・暦生には俗人(出家していない人・在家)の人材を登用して陰陽諸学を習得させ、朝廷において自由な出仕・使役が可能な人材を育成しようとしていた。その後、次第にこの運用はあいまいになり、学僧が還俗しないまま方技に任命され、四等官上位職(特に頭・助)に転任または兼任を命じられて、行政官としても実働することも見られるようになったが、基本的には還俗しない学僧方技の位階を上げる場合には、律令制度の基本である官位相当制によって方技の職制のままでは位階を上げることができないため、「権職(ごんのしょく)」(外配置)によって四等官上位職を兼務させることで位階を上げる方法がとられた。また、修習生の育成が進むと、俗人官僚の方技が増え更に自由な人事交流がなされるようになった。いずれにしても、陰陽寮における技官の行政官への転任や兼任は非常に多く、長官である陰陽頭も技官出身者や技官による兼務が数多く見られ、奈良時代から平安時代初期を通じて技術系の官庁としての色彩を強めた。

しかし承和5年(838年)を最後に遣唐使が廃れたことにより[注 1]、朝鮮半島の統一新羅とはかつての百済ほどの親密性はなかったため、わずか30名の修習生にしぼって閉鎖的に方技の育成を続けた結果、平安時代初期には、次第に陰陽寮の技官人材が乏しくなったと見られたことや、公家の勢力争いの激化にともなう役職不足もあいまって、陰陽寮で唯一の仙籍(殿上人)相当職制である陰陽頭は、各博士などの技官からの登用ではなく、単に公家の一役職として利用されることが多くなり、それも長官職としては従五位下という仙籍格としては末席の地位であったことから、比較的境遇の悪い傍流の公家に対する処遇と化す傾向を見せた。


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