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じんのうち たいぞう
出生名陣内大蔵
生誕 (1965-05-25) 1965年5月25日(59歳)
出身地 日本 山口県宇部市
学歴関西学院大学神学部除籍
日本聖書神学校卒業
ジャンルJ-POP、AOR
職業シンガーソングライター、
キリスト教牧師
担当楽器ヴァイオリン,ピアノ,キーボード,ギター
活動期間1988年 -
レーベルファンハウス
(1988年 - 1995年)
徳間ジャパンコミュニケーションズ
(1996年 - 2002年)
事務所Cotton(コットンフィールズ)
(1988年 - 1994年)
(現;株式会社365(株)アップ・デイト)
(1995年 - 2002年)
エターナル・ヨーク((株)アップ・デイトと同様、現;株式会社365に権利移譲)
(2003年 - 2005年)
共同作業者日朝幸雄、国吉良一
公式サイト ⇒陣内大蔵公式サイト
ピーター・ガブリエル
陣内 大蔵(じんのうち たいぞう、1965年5月25日 - )は、日本のシンガーソングライター、音楽プロデューサー、プロテスタントのクリスチャン、日本基督教団東美教会牧師。
山口県宇部市出身。父は、元日本連合基督教共励会会長の陣内厚生。
来歴
1965年
山口県宇部市にある日本基督教団緑橋教会で、日本連合基督教共励会会長を務めていた陣内厚生の長男として生まれる。キリスト信仰をもち、プロテスタントのクリスチャンとなる。礼拝堂にアップライトピアノがあったため、幼少の頃から我流演奏で親しんだ。初めての自作曲は、童謡風の「きょうだいのうた」。
1971年-1976年
教会の聖歌隊に参加する。ヴァイオリンを習い始め、中学まで続ける。陣内自身は、ヴァイオリンはフレットレスなので音感を養うには最適だったと後に述懐している。
1978年-1980年
中学時代、ブラスバンド部に入部。当初、トロンボーンを吹いていたが、ディープ・パープルのイアン・ペイスへの憧れから、前任の退部を機会にドラムへ転向し、担当する。
1981年-1983年
山口県立宇部高校時代、ARBの石橋凌に憧れてボーカルに転向する。同バンドの曲「ノクターン・クラブ」から名付けたロックバンド『ノクターン』を結成する。本格的に作曲を始める。「曲を作っていて、何かに似てる曲だな?と思ってよくよく考えてみると賛美歌だった」というようなクリスチャンならではのエピソードを残している。唯一の音源として『ノクターンの風』というコンパクトカセットを制作している。収録曲は詳細不明である。
1984年
自宅浪人時代、バンドを解散し、ソロでアマチュア・コンテストに出場するようになり、数々の賞を獲る。陣内がグランプリを獲ったコンテストで司会を務めた円広志は、後に音楽番組で共演した際、「覚えています。あの、ヴァイオリン弾きながら…」とギターを持つ仕草で証言している。
1985年-1986年
関西学院大学神学部に進学。一回生の時に第29回ヤマハポピュラーソングコンテストで中国地方代表として「ねむれ」で本選会に出場。第31回ポプコンでは関西代表として本選会で「惚れて」を演奏し、入賞を果たす。
1987年
デビュー話を持ちかけられ、大学を休学し上京。しかし、その話は白紙撤回となり、1年近くもデビュー浪人することになる。
1988年
4月1日にシングル『いと小さき君の為に』、アルバム『Moratorium』でファンハウスからデビュー。プロデューサーは、ヤマハのディレクターである日朝幸雄が担当し、THE ALPHAを紹介される。デビュー・アルバムではその知己から全面協力を得た。デビュー時のキャッチコピーは、「許してほしい… 夜になると、僕は偽善者になれないんだ。」であった。これについては、陣内とファンハウスの担当とは意見対立する。陣内の当初希望は「許してほしい… 夜になると、僕は偽善者になるんだ。」だった。
1989年
香港の歌手、張立基(Norman Cheung)の「First Snow」のカバー「夜消沈」が香港で大ヒットし、以降、香港・タイ・マレーシアなど、主に東南アジアの国々で陣内の楽曲がカバーされる。
1990年
香港コロシアムで行われた音楽祭で日本人最優秀アーティスト賞を受賞。「Blow wind blow?風よ吹け?」のプロモーション時、「台風情報、CM挟んで、陣内Blow wind blow」という最悪状態でのテレビ出演であった。
1991年
「深く、明るく」をテーマに掲げる。シングル「空よ」をリリース。同曲はテレビドラマ「刑事貴族」のエンディングで使用された。
1992年
関西学院大学神学部を除籍される。シングル「心の扉」をリリース、ヒットする。
1993年
Act Against Aids'93・名古屋レインボーホールのトップバッターで出演。サポートミュージシャン・為山五朗がギターをチューニングをしている最中に司会の吉田拓郎にコールされるハプニングがあった。
1994年
「生まれ変わるぜ」をテーマに掲げる。シングル「僕は風 君は空」をリリース。スマッシュ・ヒットする。「Reset」の制作中、深夜まで延々とオープンコードのワンコードでギターを弾いていたら、時節柄、近隣住民から「オウム真理教の信者じゃないか?」と疑われ、警察に通報されたことがある。
1996年
シングル「Messy Lover」をリリースする。ラジオ番組『夕方音楽』の企画で、まず「Messy Lover」、「君の名を呼んだ」、「Destiny」のデモトラックを番組で流し、リスナーの意見を集い、それを取り入れながら徐々にオーバー・ダビングしていく手法で製作された。また、夕方音楽Web内でもその音源を視聴できるようにした。その中で反響が一番大きかった「Messy Lover」がタイトル曲に決定され、中ジャケットにはリスナーの名前がクレジットされた。
2001年
夏からは、斉藤ノブをリーダーとする音楽ユニット『Vibes』のボーカルとして活動を開始する。
2003年
『Vibes』の活動を休止。4月、専門学校横浜ミュージックスクールでボーカル専属講師に着任。3年間務める。
2007年
日本聖書神学校を卒業。6月17日、東美教会(吉祥寺)伝道師に就任。ライフワークとして「チャーチコンサート」を日本各地の教会で行っている。 実家が教会だったことは、礼拝堂を中心とした生活の場、音楽の場として、陣内大蔵の人格形成に大きく寄与している。幼少時から聖歌隊で歌唱力を活かし、礼拝堂にあったアップライトピアノ、中学生まで習っていたヴァイオリンで楽器に親しむことになった。当時のことは、角川書店発行の『月刊カドカワ』に連載したエッセイ「教会の裏窓から」に詳しく紹介している。 コンサートでの自己紹介では、『親父が厚生省が出来た年に生まれたので、厚生って書いて「あつお」。親父はずっと考えていたんでしょうね、僕、長男が大蔵省の大蔵で「たいぞう」、次男が文部省の文部で「あやべ」、三男が自治省の自治で「おさむ」、長女が生まれた時に「さすがに女の子に大臣の名前は…」ということになって普通に聖書から名前取ってつけたんですけどね、最後にオチを付けたかったんでしょうね、飼っていた犬の名前が総理。犬が一番偉い(笑)』とデビュー時から続けている。 この実話は2000年頃の「中央省庁再編を期に使えなくなる」と冗談めかしていた。派生した話題として、「親父は心に大きな蔵を持てというつもりで命名したんだ、とか言ってますが」、「母親は普通の名前です」、「(名前のインパクトのおかげで)バイトの面接は落ちたことがない」がある。次男の文部は博報堂を経て株式会社オサマジョール代表取締役社長[1]、三男の自治は徳島県で耳鼻咽喉科の医師をしている[2]。 アップライトピアノは「出っ張っていて弾きやすい」という単純な理由で黒鍵を多用した我流演奏が始まり、やがて作曲時の黒鍵多用の変なキーに繋がっていく。 デビュー前後のインタビューで「歌って踊れる牧師になりたい」とよく語っていた。 既婚者であり子供も居る。 空手バカ一代好きが昂じて、中学時代に極真空手を始め、高校時代には山口県のある大会で入賞している。 水彩画を描くこと。自身の音楽作品では『View』、『BAKU』のアルバムジャケット、『Dear Moon』のクリスマスカードなどをイラストレーターとして手がけている。1993年には「無人島へひとつだけ何かを持っていけるとしたら?」という問いに「水彩画の道具」と答えている。 蕎麦を打つこと。ファンクラブの蕎麦打ち旅行以来、自分でも打つようになり、時々ミュージシャン仲間に振舞っている。 テーマのある旅行をすること。「リセット」「トム・ソーヤになろう」などのように旅にテーマを持たせる。北欧方面でも、特にフィンランドが気に入っている。 プロ野球・阪神タイガースファンである。プロ野球に興味を持ち始めた小学生の頃、読売ジャイアンツのV7を阻止せんと阪神が孤軍奮闘していたのを応援したのがきっかけで、1985年に甲子園球場でアルバイトをしていた時に、阪神が優勝してしまい「一生決まった」とのこと。阪神百貨店で発売された優勝限定ビールを飲まずに大切に保管している。「上昇志向の巨人がイヤ」で、「巨人・自民党・北の湖が嫌いで、阪神・社会党・魁傑が好きだった」と冗談交じりに語っている。 ピーター・ガブリエルからもらったバドワイザーの空き缶を家宝としている。アルバム『Big Deal』のリアルワールドスタジオでのトラックダウン・MV撮影のため訪英した際、Usのレコーディングでピーターと居合わせ、エアロビクスで一緒に汗を流した。バドワイザー缶はその時に貰ったもので、雑誌『FM fan』に掲載されたこともある。 初めて買ったレコードは父親の影響もあり、ザ・フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」。B面の「コブのない駱駝」の歌詞にいたく感銘を受け、音楽番組やライブMCで歌詞の素晴らしさを熱く語り続けている。 高校時代の先輩の一人に、後にKATZEを結成する高山克彬がいた。陣内は高山の子分的存在だった。 アマチュア時代は、自称『作曲オタク』でコンテスト荒らしの異名を持つほどだったが、デビューするまでライブの経験はほとんどなかった。 「デビルマンの歌」が大好きで、カラオケの十八番である。当初、自身の携帯電話にはこの曲を着メロとして打ち込んで自作していた。 U2の大ファンで、来日公演は欠かさずに観に行っている。 デビュー・アルバム選曲中、プロデューサーの日朝に「陣内の年齢でその歌を歌っても説得力がない」と言われ、お蔵入りになってしまった曲がある(→「かわいた海」)。 山口市の湯田温泉で路上ミュージシャンに触発され、本格的に弾き語っていたところ、警察に通報された。 アーティスト名の表記は、『TAIZO JINNOUCHI』、『JINNOUCHI TAIZO』、『JINNOUCHI』、『陣内』などと様々であり、デビュー時のコンサート広告では『陳内大蔵』と誤記されることもあった。楽曲名も帯とCDレーベル、ジャケットで統一されておらず、振り仮名が伴うことも多い。また、雑誌メディアで名前を誤植されることも多く、西村智彦(SING LIKE TALKING)とのトークで「この前なんか『陣内大臓』ですよ、臓物って…」という一幕があったが、2001年3月17日、山口県主催の『臓器移植フォーラム』に招かれ、ライブを行うことになるとは誰にも予想できなかった。
人物
教会と家族
特技
趣味・嗜好
音楽活動
デビュー前
デビュー後
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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