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白河上皇の御幸。『春日権現験記』より。
院政(いんせい)は、上皇(太上天皇)または出家した上皇である法皇(太上法皇)が天皇に代わり政務を行う政治形態のことである。この政治形態は、「院」すなわち上皇の執政を常態とする[1]。もうひとつの意味としては(上皇の院政に喩えて)、現職を引退した人が引退後も実権を握っていることを指す[2]。 摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治の方針である。 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが[3]、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という(院という場所で政治を行ったから院政というとする説もある)。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」[4]として「院政」[5]と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。 本来、皇位はいわゆる終身制となっており、皇位の継承は天皇の崩御によってのみ行われていた。皇極天皇以降、持統天皇・元正天皇・聖武天皇など、皇位の譲位が行われるようになった。当時は皇位継承が安定していなかったため(大兄制)、譲位という意思表示によって意中の皇子に皇位継承させるためにとられた方法と考えられている。皇極・持統・元正は女帝であり、皇位継承者としての成人した男性皇族が現れるまでの中継ぎに過ぎなかったという事情があった。聖武天皇に関しては、国家プロジェクトであった東大寺建立に専念するためという事情もあった。これらが後年の院政の萌芽となる。 平安時代に入っても嵯峨天皇や宇多天皇や、円融天皇などにも、譲位が見られる(後述)。日本の律令下では上皇は天皇と同等の権限を持つとされていたため、こうしたやや変則的な政体ですら制度の枠内で可能であった。これらの天皇は退位後も「天皇家の家父長」として若い天皇を後見するとして国政に関与することがあった。だが、当時はまだこの状態を常に維持するための政治的組織や財政的・軍事的裏付けが不十分であり、平安時代中期には幼く短命な天皇が多く十分な指導力を発揮するための若さと健康を保持した上皇が絶えて久しかったために、父系によるこの仕組みは衰退していく[注釈 1]。代わりに母系にあたる天皇の外祖父の地位を占めた藤原北家が天皇の職務・権利を代理・代行する摂関政治が隆盛していくことになる。 だが、治暦4年(1068年)の後三条天皇の即位はその状況に大きな変化をもたらした。平安時代を通じて皇位継承の安定が大きな政治課題とされており、皇統を一条天皇系へ統一するという流れの中で、後三条天皇が即位することとなった。後三条天皇は、宇多天皇以来藤原北家(摂関家)を外戚に持たない170年ぶりの天皇であり、外戚の地位を権力の源泉としていた摂関政治がここに揺らぎ始めることとなる。 後三条天皇以前の天皇の多くも即位した直後に、皇権の確立と律令の復興を企図して「新政」と称した一連の政策を企画実行していたが、後三条天皇は外戚に摂関家を持たない強みも背景として、延久の荘園整理令(1069年)などより積極的な政策展開を行った。
概要
前史