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『普賢菩薩像』(東京国立博物館蔵)
普賢菩薩は法華経信者を守護するため白い象に乗って東方より現れると説かれていた。彩色や截金の美麗さに加え余白の情感が幻想的で優美だとされる。銀泥も素材の仲間入りをするが、酸化して黒ずんで見える。国宝。12世紀制作。[1]
院政期文化(いんせいきぶんか)は、平安時代末葉の11世紀後半から、鎌倉幕府成立に至る12世紀末にかけての日本の文化。院政期は、退位した院(上皇)が、皇位を継承した天皇の父権を根拠として、権力や権威を獲得した時期であった[2]。同時期は貴族の衰退と武士の伸長という過渡期であり、貴族と武家を対抗的に捉える向きもあったが、文化史や美術史などでは公武対抗的な見方に捉われない文化史の把握も提唱されている[3][4]。文化面でも新しい動きがみられ、その特徴としては、王権の主体となった院が様々な文化的動向や事象に強く影響を与えたことや[5][6]、田楽ややすらい花などに見られる庶民の姿が注目されている[7][8]。
概要「皮聖」と呼ばれた平安時代中期の聖、行円
院政期は、治天の君による仏法の興隆政策などによって寺社の世俗化が大いに進展した時期であった[9]が、その反面、この状況をきらって特定の寺院に属さない「聖」や「遁世僧」とよばれる僧位僧官制外の布教者があらわれ、とくに浄土教の教えを広めていった時期である[10]。白河院の仏法重視などは、院政期の文化に多大な影響を与えた[11]。
京と琵琶湖岸の要津坂本や東国とをつなぐ白河の地には六勝寺が建ち並び[12]、北野神社とその周辺、さらにまた、多くの離宮が建てられた鳥羽周辺の京都南郊もまた宇治川や淀川と結びついて新たな都市的空間となりつつあった[13]。当時の京都は、このように全体として新都市の様相を呈しており[14]、そこでは王権の強化にともなう各種の美術品の創作がみられた。院は、古代国家の復活を願ったところから、その芸術には復古的な傾向がうかがわれ、離宮や御所の宝蔵には国内外の宝物が集められ、王権はさまざまな形で表現された[15]。地方の文物はかつてないほど都に流入していったのである。
中央の文化も広く地方へ伝播していった。それはおもに奥州平泉の中尊寺金色堂、陸奥の白水阿弥陀堂、豊後の富貴寺大堂など、寺院建築の遺構にその傾向が顕著にうかがえる[16][17]。また平清盛ゆかりの安芸の厳島神社も当時の地方の文化水準の高さを物語るように、日本各地で文化的中心地が誕生した[18]。
貴族層の関心が、庶民や新興階級である武士に向かったのも院政期であった[19]。それは、軍記物の執筆や説話集の編纂[20][21]、また、新しい絵画ジャンルである絵巻物の画題などにもよくあらわれている。