降旗康男
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ふるはた やすお
降旗 康男
本名降旗 康男
生年月日 (1934-08-19) 1934年8月19日
没年月日 (2019-05-20) 2019年5月20日(84歳没)
出生地 日本長野県松本市
死没地 日本東京都
職業映画監督
活動期間1963年 - 2019年
配偶者典子(村上元三長女)
著名な家族降旗元太郎(祖父)
降旗徳弥(父)
主な作品
地獄の掟に明日はない
獄中の顔役
現代やくざ 与太者の掟
鉄道員(ぽっぽや)

 受賞
日本アカデミー賞
最優秀監督賞
1999年鉄道員(ぽっぽや)
最優秀脚本賞
1999年『鉄道員(ぽっぽや)』
その他の賞
インド国際映画祭
金孔雀賞
2000年鉄道員(ぽっぽや)芸術選奨文部科学大臣賞
2001年ホタル紫綬褒章
2002年

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降旗 康男(ふるはた やすお、1934年8月19日 - 2019年5月20日[1][2])は、日本映画監督長野県松本市出身[3][4]
経歴

東筑摩郡本郷村浅間温泉街に生まれる[3]。祖父は立憲民政党衆議院議員を務めた降旗元太郎、父は日本進歩党衆議院議員、第2次吉田内閣逓信大臣、松本市長を歴任した降旗徳弥[5][6]。地元の名士の家系であった。長野県松本深志高等学校時代からフランス映画シャンソンに熱中し始め、フランス語を独習。『失われた時を求めて』を原文で読む輪読会に参加した。東京大学へ進学し、1957年文学部フランス文学科を卒業[6]。同級生には安藤元雄がいた。

住友銀行副頭取だった叔父の降旗英弥を頼り、1957年に東映に入社[1][2]東映京都撮影所(以下、東映京都)で時代劇を撮るよう指示されるが、現代劇しかやりたくないと訴えて拒否する[7]東映東京撮影所(以下、東映東京)の中でもさらに傍流であった歌謡映画に携わり、特定の監督には就かず[6]レッドパージ松竹を逐われた家城巳代治田坂具隆佐伯清らの助監督を務めた[6]東宝争議の主導者であったことで知られるカメラマン宮島義勇と出会い、大きく影響を受けた[8]。そうした環境もあり、降旗もまた東映の労働運動に熱中していった[7]。28歳のとき、作家村上元三の長女で7歳年下の典子と見合い結婚。やはり叔父英弥の紹介であった[9]1960年ジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』を観て大きな衝撃を受け[10]、もう自分の出る幕はない、いつ辞めることになっても悔いはないと思っていたところで監督デビューとなった[10]

1966年、東映京都所長に転任していた岡田茂が『非行少女ヨーコ』で監督に昇格させた[11][12]アカ嫌いの大川博東映社長は「組合を辞めないと監督にさせない」と言ったが[7][9]、当時の東映東京所長・今田智憲が「社長の前では何も言わずに笑ってろ」と機転を利かし、上手く監督デビューできた[7][10][9]。東映は時代劇映画の人気が落ちる中で岡田茂が任侠映画に活路を見出し[13][14]俊藤浩滋がプロデューサーとして東映任侠路線を仕切っていた[9][14]。監督デビュー間もない頃、鹿島建設の創業者を描いた企業映画『超高層のあけぼの』の撮影を持ちかけられたが[10][15][16]、「成功者の映画は撮りたくない」などと断り、その後一時干され[10][15]、テレビの演出が増える[6]。1968年東映を一旦退社し[6]、東映専属契約者となる[6]。あるプロデューサーから「負けた者の映画を撮りたいならヤクザ映画だ。東映では俊藤さんの映画を撮らなきゃ、監督は務まらない」と言われ[16]アウトローヤクザ映画を撮るのがいいという話になり、俊藤プロデュースの『獄中の顔役』を手始めに[16]、任侠映画を多く手がけるようになった[15][16]高倉健とは、1966年の『地獄の掟に明日はない』を皮切りに以降、20本の映画でコンビを組む[7][17]。東映の上層部と溝ができ、専属契約を解除して1974年フリー[6]。以降、山口百恵主演の『赤いシリーズ』などテレビ映画の監督を多数務めた[10]

高倉健主演の任侠映画の大ファンであった倉本聰の熱烈なラブコールもあり、1978年の『冬の華』で東映ヤクザ映画に復帰[18]。本来は山下耕作が監督をする予定だったが、倉本と意見が合わずに降板したため、倉本の大学の先輩である降旗がピンチヒッターとして起用された。これ以降、「降旗&高倉」はゴールデンコンビとされるようになった。

1999年、やはり高倉健が主演を務めた『鉄道員』で日本アカデミー賞監督賞・脚本賞を受賞。2002年紫綬褒章、2008年には旭日小綬章を受章した[1]。80歳を過ぎてからもメガホンを執った監督として知られた。

追憶』撮影終了後の2016年パーキンソン病を発症し、療養生活に入る[1][2]2019年5月20日9時44分、肺炎のため東京都内で死去[1][2][19][20]。84歳没。
人物

降旗とのコンビで『
地獄の掟に明日はない』『ホタル』など数々の作品を作り上げた高倉健は、寡黙で撮影現場ではほとんど声を張り上げて指示を出さない降旗に対し、コンビを組むことの多いカメラマンの木村大作が大変なおしゃべりで大声で現場を仕切るため、初めて呼ばれる役者は木村が監督だと勘違いすることもしばしばあると、自身のエッセイ「あなたに褒められたくて」でユーモラスに紹介していた。一見すると頼りないようにも思えるが、木村のような個性の強いカメラマンに撮影された作品でも、必ず降旗の個性の出た降旗作品に仕上がると語っている。

木村自身も同様に「いくら撮影を頑張ってもやっぱり降旗映画」になると語っている[21]


野村正昭は「任侠映画を手がけても降旗の映画には、フランス映画のようなどことなく垢抜け、洒落た雰囲気があった」と評している[6]

1978年には、東映の吉川進プロデューサーから「『スパイダーマン』の監督をやってみないか?」と声をかけられたことがあり、しばらく後になって「いつになったら俺に『スパイダーマン』を監督させてくれるんだ」と意外な返答をしたこともあったという[22]


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