阿部 真宏埼玉西武ライオンズ 内野守備走塁コーチ #76
西武時代
(2011年8月30日 こまちスタジアムにて)
基本情報
国籍 日本
出身地神奈川県川崎市高津区
生年月日 (1978-05-12) 1978年5月12日(46歳)
身長
体重181 cm
85 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション内野手
プロ入り2000年 ドラフト4位
初出場2001年3月24日
最終出場2012年6月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
横浜高等学校
法政大学
大阪近鉄バファローズ (2001 - 2004)
オリックス・バファローズ (2005 - 2009)
埼玉西武ライオンズ (2010 - 2012)
コーチ歴
埼玉西武ライオンズ (2015 - )
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阿部 真宏(あべ まさひろ、1978年5月12日 - )は、神奈川県川崎市高津区出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、コーチ。現在は埼玉西武ライオンズの内野守備走塁コーチ。 横浜高等学校では幕田賢治と共にクリーンナップを打ち、エースに松井光介を擁するチームで4番として第78回全国高等学校野球選手権大会に出場。初戦の2回戦で山田秋親を擁する北嵯峨高校に勝利したが、3回戦で4強入りした福井商に敗れた。高校では2学年先輩に多村仁志・斉藤宜之・紀田彰一・矢野英司、1学年先輩に横山道哉、1学年後輩に上地雄輔、2学年後輩に松坂大輔・小池正晃・後藤武敏・小山良男がいた。矢野、後藤とは大学でも一緒にプレーした[1]。 高校卒業後は法政大学に進学し、1年春からベンチ入りすると2年から三塁手、遊撃手のレギュラーとして同期の廣瀬純と共に3番や4番を打ち、リーグ優勝に貢献した。2年秋のリーグ戦では首位打者、打点王[2]になり、明治神宮大会では本塁打を放って4強[2]。4年時には大学選手権8強入り。リーグ戦通算82試合出場、281打数82安打、打率.292、6本塁打、42打点。ベストナインに2回(三塁、遊撃手)選出されたほか、シドニーオリンピック予選野球日本代表に選ばれた。 2000年のドラフト会議において、大阪近鉄バファローズから4位指名を受け入団。 2001年4月15日の対日本ハムファイターズ戦でサヨナラ安打を放つなど、12年ぶりとなるチームのリーグ優勝に貢献したが、ショーン・ギルバートの入団もあって育成重視の方針から2軍での出場が多かった。日本シリーズでは第3戦で出場機会があった。 2002年はギルバートの退団に伴い、ほぼレギュラーの座を獲得する。打率は2割を少し上回る程度だったが、安定した守備で高須洋介などのライバルを凌駕した。 2003年は課題の打撃で成長が見られ、流し打ちの精度を高めることで出塁率を上げ、シーズン終盤まで3割を維持しオールスターゲームにも監督推薦で初出場を果たした。下位打順で粘り強い打撃を見せ、規定打席に到達して打率.291を記録。2004年は再び打率を落とし、オフの球団合併に伴う分配ドラフトでオリックス・バファローズへ入団。 2005年は仰木彬監督にレギュラーの座を与えられ、大学の先輩でもある新井宏昌一軍チーフ兼打撃コーチの指導もあって規定打席不足ながら打率.281を記録。対横浜ベイスターズ戦では、同カードの初戦を中継したテレビ神奈川が横浜高校時代の阿部と、桐蔭学園高校時代の平野恵一の神奈川大会の活躍を撮影したVTRを流した。 2006年は右手首の故障で離脱している間に後藤光尊が遊撃手のレギュラーとなり、復帰後も活躍できず打率.217だった。 2007年は大学の後輩である大引啓次が遊撃手のレギュラーとなり、2番・二塁手で開幕スタメン出場した。しかし、シーズン序盤に離脱して復帰後も8月に絶不調に陥るなど好不調の波が激しく、右投手に極端に弱いこともあって後藤との併用が最後まで続いた。6月2日の対横浜ベイスターズ戦で復帰・スタメン出場を果たし、0-0で迎えた7回裏に三浦大輔から決勝適時二塁打を放った。この試合はナイターだったが、試合後のヒーローインタビューでは「2軍はほとんどデーゲームなんで、いまの時間は昨日までならもう疲れて寝ている時間です」と答え、場内の爆笑を誘った。 2008年は極度の打撃不振に陥り、55試合に出場して打率.218だった。 2009年は後藤と大引の故障により7月29日に1軍昇格。当初は主に二塁手として、後藤の復帰後は主に三塁手としての出場が多かった。打撃面では小技の上手さなどを買われて主に坂口智隆と1、2番を組んでいたが徐々に打率が下がり、シーズン終盤には下位打線を打つことが多くなった。前年より少ない46試合の出場だったが打席数は前年を上回り、打撃成績も向上した。 2010年2月19日に赤田将吾との交換トレードで埼玉西武ライオンズへ移籍[3]。大学の同期だったG.G.佐藤と再びチームメイトとなる。 移籍当初は代打や中村剛也の守備固めでの出場がメインだったが、中村の離脱後は相手先発投手がサウスポーの際、また内野ゴロの多い帆足和幸が先発する際は三塁手としてスタメン出場する機会が増えた。打率.256・出塁率.372、対左投手の打率は.307を記録し、控え内野手として戦力となった。2012年10月1日、戦力外通告を受けた[4]。10月30日に、同僚の大島裕行、平尾博嗣とともに任意引退公示された[5]。 2013年からは球団職員となり地域事業担当として、「ライオンズアカデミー」の業務をはじめ、地域貢献活動に携わる[6]。 2014年10月11日、西武の一軍打撃コーチへの就任が発表された[7]。その後、2021年まで同職を務め、2022年からは二軍内野守備・走塁コーチへ配置転換[8]。
経歴
プロ入り前
近鉄時代
オリックス時代
西武時代
引退後埼玉西武ライオンズでのコーチ時代
(2019年4月2日)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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