阿部正三郎
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あべ しょうざぶろう
阿部 正三郎
本名阿部 正太郎 (あべ しょうたろう)
別名義片岡 市女男 (かたおか しめお)
生年月日 (1912-01-15)
1912年1月15日
没年月日不詳年
出生地 日本 東京府東京市浅草区阿部川町(現在の東京都台東区元浅草3-4丁目)
身長162cm
職業俳優
ジャンル新派旧劇劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間1924年 - 1940年
主な作品
「与太者シリーズ」
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阿部 正三郎(あべ しょうざぶろう、1912年1月15日 - 1940年代)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7]。本名阿部 正太郎(あべ しょうたろう)[8]、旧芸名片岡 市女男(かたおか しめお)[1][2]。1930年代の松竹蒲田撮影所において、磯野秋雄、三井秀男(のちの三井弘次)との「与太者トリオ」で知られる[1][2]
目次

1 人物・来歴

1.1 新派と旧劇

1.2 蒲田の与太者トリオ


2 フィルモグラフィ

2.1 松竹蒲田撮影所

2.2 松竹大船撮影所


3 脚注

4 参考文献

5 関連項目

6 外部リンク

人物・来歴
新派と旧劇

1912年明治45年)1月15日東京府東京市浅草区阿部川町(現在の東京都台東区元浅草3-4丁目)に生まれる[1][2]。生年月日については、『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』には同年「2月15日」とされている[8]。父・阿部三之助は、芝居関係の仕事をしていた人物であるとされる[1]

数え年9歳になった1920年(大正9年)、父の仕事をきっかけに、新派河合武雄一座に入門し、九州巡業で初舞台に立つ[1][2]。巡業を終えて東京に戻ると、次には伊井蓉峰一座に参加、本郷区春木町(現在の文京区本郷3丁目)の本郷座京橋区木挽町(現在の中央区銀座4丁目12番15号)の歌舞伎座日本橋区久松町(現在の中央区日本橋浜町2丁目31番1号)の明治座での新派劇に出演し[1][2]。『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』では、この時点で旧劇(歌舞伎)の四代目澤村源之助一座に参加、名古屋御園座に出演していたとする[8]

満11歳となった1923年(大正12年)8月には、浅草公園六区の公園劇場(現存せず)で上演された『己が罪』で伏見信子と共演している[1][2]。同年9月1日に起きた関東大震災以降は、新劇の流れをくむ新派から一転して旧劇に転向、尾上菊右衛門一座に入門した[1][2]。このとき「片岡 市女男」と改名、新潟佐渡への巡業に参加した[1][2]。『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』によれば、『己が罪』での伏見信子との共演は河合武雄一座によるものとし、公演時期を震災復興後の時期としており、その時点で「片岡市女男」を名乗っていたとする[8]
蒲田の与太者トリオ

1925年(大正14年)6月、満13歳で松竹蒲田撮影所に入社し、映画俳優「阿部 正三郎」となる[1][2]。当初の出演歴が不明である[1][2][3][4]。ただし、『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』では、蒲田入社時期を「昭和5年」(1930年)としている[8]。満19歳となった1931年(昭和6年)12月4日に公開された野村浩将監督によるサイレント映画『令嬢と与太者』から、主演に近い役を得る[1][2][3][4]。同作以降、シリーズ化されて「与太者シリーズ」となり、磯野秋雄、三井秀男(のちの三井弘次)との「与太者トリオ」は、人気を博した[1][2]。同シリーズでの貢献により、1934年(昭和9年)1月、阿部は、磯野、三井とともに準幹部待遇に昇格、翌1935年(昭和10年)1月には、3人そろって準幹部に昇格した[1]。1936年(昭和11年)1月15日の撮影所機能が神奈川県鎌倉郡大船町(現在の同県鎌倉市大船)に移転するにあたり、新設の松竹大船撮影所に異動になった[3][4]。現代劇ばかりではなく、京都の松竹下加茂撮影所に出張して、時代劇剣戟映画に主演・準主演することもあった[1][3][4]


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