阿部定
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安部定」あるいは「阿部サダヲ」とは別人です。

阿部 定
事件前の阿部定
生誕1905年5月28日
日本 東京府東京市神田区新銀町(現:東京都千代田区神田司町2丁目と神田多町2丁目[1]
死没不明(1971年以降消息不明[2]
別名吉井昌子
田中加代
職業芸妓、娼妓
罪名殺人罪
刑罰懲役6年(未決勾留120日を含む)
親阿部重吉
阿部カツ
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阿部 定(あべ さだ、1905年明治38年〉5月28日 - 没年不明[3])は、1936年5月に愛人を殺害し、切断した男性器を持ち去って大きな話題となった阿部定事件の加害者。
生涯
生い立ち

屋「相模屋」の阿部重吉・カツ夫妻の末娘として東京市神田区新銀町(現在の東京都千代田区神田司町2丁目と神田多町2丁目)に生まれる。弟子や職人が出入りする裕福な家だった[1]。母カツの乳の出が悪かったため、1歳になるまで近所の家で育てられた。定は4歳になるまで家族とも会話ができなかった。後に癇癪持ちになり、裁判時にヒステリーと診断されているが、幼児期のこうした体験が関連があるのではとも言われている。

8人兄弟だが長女、次男、三男は幼くして亡くなり、四男は養子に出され、定が神田尋常小学校(現在の千代田小学校)に通う頃には20歳以上年が離れた長男・新太郎、17歳年上の次女・とく、6歳年上の三女・千代の4人兄弟であった。

定は母親の勧めで進学する前から三味線常磐津を習い、相模屋のお定ちゃん(おさぁちゃん)と近所でも評判の美少女だった。職人たちからは「きれいだ」と言われていた[1]。兄姉と年が離れていたので、両親にかわいがられ、甘やかされて育つ[1]

孫のように年が離れた末娘に母は稽古事の際には毎回新しい着物を着せ、大人のように髪を結わせて通わせた。また定もこれが似合う美少女であったので定を猫かわいがりしていた父母は鼻が高かった。定の見栄っ張りで少々高慢な性格はこの頃から見受けられるようになる。父母は日常の学校生活よりも歌や踊りや三味線の稽古を優先して育て、尋常小学校の教師からも注意を受けている。
少女期

高等小学校に進学するも、15歳の時に自主退学している。「当時は親分肌の性格だった」と隣人が証言している。15歳(数えのため満14歳)の頃、近所の家に遊びに来ていた慶應大生とふざけているうちに強姦されてしまった。初潮もまだで生理を知らなかった定は2日も止まらない出血が恐ろしくなり相談、母がその学生と話をしようと自宅まで行くが、本人とは会えず、泣き寝入りする形になる。定は16歳の終わり頃に初潮をむかえた。

定はその後近所で評判の不良少女になっていくが、本人の弁によれば「もう自分は処女でないと思うと、このようなことを隠してお嫁に行くのはいやだし、これを話してお嫁に行くにはなおいやだし、もうお嫁にいけないのだ、どうしようかしらと思いつめ、ヤケクソになってしまいました」。母は定をなだめようと優しい言葉をかけたり、物を買い与えたが、逆にそれが癪に障った。

丁度その頃、阿部家は長男と次女の男女問題や家業継承問題でもめており、母は家庭内の揉め事を年頃の定に見せないように小遣いを渡して外に出すようになり、やがて定は現代の金額に換算すると10万円から60万円もの大金を家から持ち出して、浅草界隈を仲間を引き連れて遊びまわる不良娘となっていた。父は時折厳しく定を叱り付け、家から閉め出したり折檻をしている。後に浅草の女極道「小桜のお蝶」とも張り合うようになり地元神田にまで定の名は轟く。

この頃の定の暮らしは、昼近くに目を覚まし朝昼兼用の食事を女中に運ばせ、風呂を済ますと外出し、10人以上の不良少年に取り巻かれ、凌雲閣で映画を見て、映画が終わると居酒屋へ繰り出し、夜遅く帰宅する。他の男性と交際していたが、不良仲間とは肉体関係は持っていなかった。このような生活は1年ほど続いたが、定が16歳の時に、三女・千代の縁談が決まると、体面を保つのと家を追い出される形で女中奉公に出たが、屋敷の娘の着物や指輪を盗んだため警察の世話になり、1か月後に家に送り返された。父・重吉は非常に怒り、それから約1年間、定を自宅で監禁同様に過ごさせている。

長男・新太郎が両親の金をありったけ持って蒸発すると、畳屋を店じまいすることになり、阿部家はその頃埼玉県入間郡坂戸町(現在の坂戸市)に転居した。しかし、阿部家は都内に貸家を何件か持っていたため、生活に困ることはなかった。
芸妓時代

その後の定は男と交際を繰り返し続け、見かねた父と兄は定が17歳の時に「そんなに男が好きなら芸妓になってしまえ」と長男・新太郎の前妻・ムメの妹の夫で女衒の稲葉正武に売ってしまう。稲葉はかつては彫刻家の高村光雲の弟子で、当時は彫り物家の肩書きも持っていた。稲葉は定に夜這いをかけ、4年ほど定のヒモとなっている。

神奈川県横浜市住吉町(現在の横浜市中区住吉町)の芸妓屋「春新美濃(はじみの)」に前借金300円で契約。源氏名「みやこ」として芸者の世界に脚を入れる。1年ほど春新美濃に在籍し、その後も横浜や長野で芸者として働いていたが、三味線が弾けるとはいえ特筆した座敷芸がない定は、座敷に出ると客に性交を強いられることが多いのが嫌であったという。身売りの金は定の小遣いとなった。

1923年(大正12年)の関東大震災の時、定はちょうど稲葉の家に遊びに来ていたが、家は全焼。定は富山県富山市清水町の「平安楼」という芸妓屋に1000円以上の前借金をして店変えをし、前の店に返済した残りの金から300円ほどを稲葉に渡し、稲葉一家の生活の面倒を見るようになった。

20歳になると定は稲葉に騙されていたことを知り縁を切ろうとするが、「平安楼」の契約書が稲葉との連判であったため、その借金を返すべく1925年(大正14年)7月、長野県飯田市の「三河屋」に移転する。しかし自分で売り込むわけにもいかず、ここでも仕方なく稲葉との連判で契約をしている。ここでは「静香」と名乗り、売れっ子芸者になったものの性病にかかってしまう。父・重吉はどうせ男に懲りて家に戻ってくるだろうと追い出したのだが、「検黴[注 1]を受けてまで不見転(みずてん。客に体を売る芸者の意)芸者をするなら、いっそのこと」と自ら進んで娼妓に身を落とした。この時、母・カツに稲葉との一部始終を暴露し、別の仲介業者を得て移籍手続きをし、稲葉から連判の契約書を返してもらっている。
娼妓時代阿部定が最後に勤めた遊郭「大正楼」(兵庫県丹波篠山市。2019年3月、倒壊の危険性が高かったため、行政代執行により強制撤去された[4]

1927年(昭和2年)、大阪府大阪市西成区にある飛田新地の高級遊郭「御園楼」に前借金2800円で契約、連判者は父の重吉であった。ここでは「園丸」と名乗り、売れっ子娼妓となる。1年ほどすると常連客の会社員から身請けの話が出たが、その男性の部下も定の常連であり、身請け話は立ち消えになる。


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