阿讃山脈
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讃岐山脈
最高峰「竜王山
所在地香川県徳島県
位置北緯34度7分0秒 東経134度4分0秒 / 北緯34.11667度 東経134.06667度 / 34.11667; 134.06667座標: 北緯34度7分0秒 東経134度4分0秒 / 北緯34.11667度 東経134.06667度 / 34.11667; 134.06667
上位山系四国山地
最高峰竜王山 (1,059.77 m)
延長100 km
幅10?15 km
種類地塁状山地
プロジェクト 山
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讃岐山脈の地形図 讃岐山脈(国際宇宙ステーションから撮影)

讃岐山脈(さぬきさんみゃく)は、香川県徳島県の境界に位置する地塁山脈阿波国讃岐国を南北に隔てたことから徳島県では阿讃山脈(あさんさんみゃく)と呼ばれることが多い。
目次

1 概要

2 主な山

3 歴史

3.1 借耕牛

3.1.1 経緯

3.1.2 実情

3.1.3 影響・副次効果

3.1.4 借耕牛をモチーフとした作品


3.2 明治以降の人とのかかわり


4 交通

5 阿讃山脈

6 脚注

7 関連項目

8 外部リンク

概要

高さ800 mほどの山が連なり、東西方向に長く、南北方向には狭いため、急峻な山脈である。香川県側の斜面に比べて徳島県側の方が直下に吉野川が流れているため急である。主に和泉層群と呼ばれる地層からできている。アンモナイトなどの化石が観察できることから、古くはであったと考えられる。

徳島平野を挟んで、四国山地に対する。(讃岐山脈をも四国山地に含めることがある。)
主な山全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML
全座標を出力 - GPX
位置データを出力 - RDF表示

山を東側より記す。小数点以下が記載された座標は最高点に位置する三角点の座標[1]。三角点の等級は本来漢数字であるが、再配列可能な表のためアラビア数字で表記している。

名称標高三角点位置
大麻山538 mなし北緯34度11分10秒東経134度29分57秒
鉢伏山439.4 m3等北緯34度10分04.8271秒東経134度25分53.8924秒
龍王山475 mなし北緯34度11分18秒東経134度25分44秒
ビク山456.3 m3等北緯34度11分28.7377秒東経134度25分16.4729秒
大山691.3 m1等北緯34度09分49.2199秒東経134度23分40.73秒
鳴嶽306 mなし北緯34度12分10秒東経134度23分20秒
虎丸山417 mなし北緯34度12分58秒東経134度18分51秒
那智山271 mなし北緯34度13分55秒東経134度17分47秒
本宮山346 mなし北緯34度13分13秒東経134度16分55秒
城王山652.4 mなし北緯34度08分57秒東経134度16分10秒
笠ヶ峰559.7 m3等北緯34度13分11.8823秒東経134度15分55.0546秒
檀特山630.6 m3等北緯34度12分42.621秒東経134度14分02.241秒
東女体山673.6 m3等北緯34度11分58.2241秒東経134度13分20.7138秒
妙体山785 mなし北緯34度08分01秒東経134度12分40秒
女体山774 mなし北緯34度11分51秒東経134度12分05秒
矢筈山789 m1等北緯34度11分39秒東経134度11分48秒
台ヶ丸山694.6 m4等北緯34度07分47.1844秒東経134度10分43.2484秒
高仙山627.1 m4等北緯34度11分37.7307秒東経134度09分03.7437秒
奥山607.2 m4等北緯34度11分02.558秒東経134度08分53.7982秒
大滝山946 mなし北緯34度07分23秒東経134度07分34秒
八丁山532.9 m3等北緯34度10分54.991秒東経134度05分57.239秒
竜王山1059.8 m4等北緯34度06分55.6368秒東経134度02分53.5394秒
三頭山734.2 m4等北緯34度04分40.3061秒東経134度02分27.1388秒
前山643.1 m3等北緯34度09分57.4125秒東経134度01分12.1281秒
大川山1042.9 m2等北緯34度06分54.5164秒東経133度56分22.736秒
若狭峰786.8 m3等北緯34度04分40.2506秒東経133度47分31.4152秒
中蓮寺峰755.9 m4等北緯34度04分46.356秒東経133度46分43.3874秒
龍王山794 mなし北緯34度01分57秒東経133度45分09秒
雲辺寺山930 mなし北緯34度02分06秒東経133度43分22秒
菩提山312.0 m3等北緯34度05分18.0652秒東経133度43分06.6434秒
高尾山495.5 m3等北緯34度03分13.839秒東経133度40分04.5856秒
金見山590.0 m2等北緯34度01分40.0507秒東経133度38分39.9688秒
大谷山507 mなし北緯34度02分09秒東経133度37分46秒

歴史
借耕牛

借耕牛(かりこうし)とは、田を耕す田起こしおよび代掻きの時期において、を引くための家畜を飼育することができない小規模農家が、農繁期のみ山間の畜農家から借りていた農耕牛のこと。

江戸時代中期から昭和時代中期[2]まで、香川県讃岐国)平野部の米作農家と徳島県阿波国)山間部の畜農家との間で行われていた相互扶助に近い農業経営上の取引活動とされる。カリコと略されることもあり、これを取りまとめる役目を追う仲介業を兼務する農家や、貸与元の農家の事を「かりこさん」と称していた土地もある。讃岐の農繁期が終わると、米などの穀類をお礼につけて返していた。そのため阿波では米取り牛と呼ばれた。
経緯

水田にできる平野部が多い讃岐では米作のための耕作は欠かせなかったが、讃岐には草地が少なく牛の飼育が困難であった。讃岐では広大な土地を有する実力者でなければ年間を通した牛馬などの大型家畜類の飼育は不可能であった。

一方、阿波の山間部(北西部の美馬郡三好郡と北東部の麻植郡など)は山地ゆえに斜面が多いため、水田に開拓できる土地が少なく、米は貴重な食糧であった。

こうした事情の一致により、讃岐の小農家の大半にとっては牛を飼わずに済み、阿波の山間農家にとっては少ない食糧を農繁期後の牛の労働で補える、この取引が発生したとされる。

借耕牛は農機具が普及し始めた昭和30年代まで続いたとされる。のちに米作農業はトラクターに代表される農業機械の登場に取って代わられ、畜産も作用業家畜ではなく食肉用家畜への生産へとシフトしていったため、時代の趨勢とともに、この風習は徐々に廃れていったとされる[2]
実情

春季の田起こしに間に合わせるため、場所によっては借耕牛は阿波の畜農家(派遣元)で山越えできるまでに育てられ冬のうちに出発し、過酷な峠の雪道を讃岐平野へと超えねばならなかった。その道のりは決して平易なものではなく、借耕牛のみならず、それを連れて移動する「かりこさん」共々に常に遭難事故との危険とも隣り合わせであったとされる。のみならず農耕の戦力として期待された牛であったがゆえに特に脚部の怪我(骨折)は禁忌であり、致命傷でもあった。移動中の雪山において不慮の事故で骨折した牛は、足手まといとして谷に落とされ安楽死を与えられる事もあったとされる。

雪深い山道を抜けて派遣元の農家に到着した後も休まることはない。大抵は過酷な冬山を越えたと同時に春の訪れとなるため、借耕牛は(また力弱い仔牛であった時は成長を待つ場合もあるが)時を置かずして作業に入るのが通例と化していた。牛を長く置けば、その期間だけ派遣先の農家の負担も大きくなる一方、派遣元の農家も一刻も早い米の到着を待っているため、派遣先の米作農家は速やかな農作業と多い収穫を要求された。結果、借耕牛にかかる負担は大きくなり、時に米を収穫し終えた際には牛の疲労は筆舌に尽くしがたいものとなる場合もあったとされる。

米の収穫を終えると牛は再び「かりこさん」と共に阿波の派遣元農家へと帰還する。しかし派遣先での重労働や秋が深まり冬口となった気候により、時に雪期が早まった時などは、借耕牛は往時以上の消耗を抱えながら険しい峠道を超えねばならなかった。当然、この帰還時の旅程も決して楽なものではなく、往時と同様の危険がつきまとった。

そして無事に阿波へと戻ってきた牛は、派遣元にて英気を養い、再び讃岐山脈を越えるのである。

このように過酷であった借耕牛の労務だが、派遣元も派遣先も決して牛に対して情を抱いていなかったわけではない。過酷な労務はあくまでも当時の農業経営上においてやむなく行われていたもので、時期に余裕がある際には当然、牛を休ませることも行い、別れの際には涙と共に牛に感謝のため拝む事が通例となっていた土地もあった。また、地域によっては阿波へと帰っていく借耕牛に塩漬け等の旅中における防腐処置を施した瀬戸内海の海産物(これも山間部では貴重品である)を米と一緒に感謝をこめて派遣元へと託したという逸話も存在する[3]


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