阿覧欧虎
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阿覧 欧虎

場所入りする阿覧
基礎情報
四股名阿覧 欧虎
本名Ала?н Габара?ев
アラン・ガバライエフ
愛称アラン、コメント大関[1]
生年月日 (1984-01-31) 1984年1月31日(40歳)
出身 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
北オセチア自治ソビエト社会主義共和国ウラジカフカス市
身長187cm
体重156kg
BMI44.61
所属部屋三保ヶ関部屋春日野部屋
得意技右四つ、寄り、押し、吊り
成績
現在の番付引退
最高位東関脇
生涯戦歴263勝258敗(40場所)
幕内戦歴196勝239敗(29場所)
優勝十両優勝1回
序ノ口優勝1回
敢闘賞2回
データ
初土俵2007年1月場所
入幕2008年11月場所
引退2013年9月場所
趣味インターネット
備考
2021年1月16日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

阿覧 欧虎(あらん はくとら、1984年1月31日 - )は、ロシア連邦北オセチア・アラニヤ共和国ウラジカフカス市出身で三保ヶ関部屋(現役晩年に春日野部屋[2])に所属した元大相撲力士。本名はアラン・ガバライエフ(ロシア語:Ала?н Габара?ев、ラテン文字転写:Alan Gabaraev)、愛称はアラン。現役時代の身長は187cm、体重は156kg、血液型はO型。最高位は東関脇2010年9月場所)。従弟は元間垣部屋若ノ鵬。趣味はインターネット。
来歴

ロシアでは露鵬白露山兄弟が所属した道場でレスリングを学び、国内のジュニア王者になるまでに成長したが、露鵬らの活躍に刺激を受けて相撲に転向。

2006年10月、大阪府堺市で開催された第14回世界相撲選手権大会個人無差別級で優勝。団体では大将として同国初優勝の立役者となった。個人戦・団体戦で二度、この年の国体成年A全日本相撲選手権大会を制した市原(のち清瀬海)を破っている。この一番を観戦していた露鵬の世話で[3]三保ヶ関部屋に入門し、外国人の世界王者としては史上初の角界入りとなった。同年12月に入門したがこのとき年齢制限間際の22歳11か月であった。同じ出羽海一門である北の湖部屋の白露山が教育係を務めていた。

初土俵同期は山本山栃乃若市原天鎧鵬など後に幕内に昇進した力士ばかりで当時としては「近年稀に見る豊作」であり、中でも栃乃若は横綱昇進まで親方衆に期待されていた。しかし自身が同期の中で唯一の三役昇進者となっており、結果的には出世頭となっている。

四股名について師匠の三保ヶ関親方(元大関増位山)は、「阿覧は発音が本名でもあるし、呼びやすい。ロシアは虎が有名なので、欧州から来た虎のように強くなってほしいという願いを込めた」と命名の理由を説明した。名は「欧虎」であるが、番付に載った3月場所では「白虎」と誤記され、序ノ口優勝のときの表彰状にも誤記されている。翌場所からは訂正されている。

2007年1月場所の前相撲初土俵を踏み、翌3月場所では序ノ口で7戦全勝優勝を果たした。翌場所からは序二段を1場所で、三段目を2場所で通過し幕下に昇進した。2008年1月場所では連勝記録を「30」と伸ばしていた土佐豊に土を付けた。幕下でも勝ち越しを続け、7月場所での十両昇進が決定した。新十両で迎えた7月場所では10勝5敗と二桁勝利をあげた。9月場所では西十両6枚目まで番付を上げ、場所前に同じロシア出身の3関取(露鵬、白露山、若ノ鵬)が大麻問題で解雇処分を受けるもショックにめげず12勝3敗の好成績で十両優勝を果たし、11月場所で前相撲からの所要11場所(琴欧洲と並び当時史上最速タイ、現在は常幸龍の9場所が最速)での新入幕を果たした。横綱審議委員会稽古総見での阿覧関(2009年4月29日撮影)

2009年7月場所11日目の時天空との一番で初めて水入りを経験しているが、本人は水入りを知らなかったため、なぜ行司が止めるかわからなかった(相撲は時天空に寄り切りで負けている)。同年9月場所9日目(9月21日)の高見盛との一番で、はたきこむ際に高見盛のまげに指が入ってしまうという反則を行い自身初の反則負けとなった。反則の前には強烈な張り手を高見盛に十数発お見舞いした。高見盛は後で「俺はサンドバッグではない」とコメントしている。[4]2009年11月場所5日目でも玉乃島戦でまげ掴みで反則負け。これは大相撲史上初の2場所連続反則負けである。

2010年5月場所は前場所に1勝14敗と大敗を喫し東前頭10枚目の地位まで下がった。この場所は横綱大関との対戦はなかったものの、順調に勝ち星を重ね、最終的に12勝3敗で取り終えた。引き技に頼らず正攻法の突き押しに徹したことが評価されて自身初の三賞(敢闘賞)を受賞した。[3]翌7月場所は6日目から10連勝して11勝4敗で取り終え、2場所連続で敢闘賞を受賞し、翌9月場所では新三役に昇進し、小結を通り越して関脇に昇進した。その場所では12日目に負け越しが決まり、その後3連勝して7勝8敗と踏みとどまったが、小結に下がった翌11月場所では4勝11敗と大敗を喫し、三役から陥落した。2011年9月場所は再び三役 (小結) に復帰したが、5勝10敗の大敗に終わった。2012年11月場所では相撲に進展を見せた。西前頭7枚目で8勝7敗という平凡な成績ながら、浅い上手を取る堅実な相撲が目立った。

2013年9月場所を最後に三保ヶ関部屋は閉鎖されて自身を含めた所属力士は春日野部屋に移籍することとなったため三保ヶ関部屋力士としては2013年9月場所が最後の本場所となったが、その場所では11日目に早々と負け越しを喫してしまい結局3勝12敗の大敗に終わってしまった。尚、同場所千秋楽若の里戦で黒星を喫した直後にも引退を示唆する発言をしていた[5][6]

場所後、10月3日に春日野部屋へ移籍し、同月6日、7日の花相撲には参加したが8日に突如引退届を提出し、同日午後1時に記者会見が開かれた。そのわずか2日後に仲間内で髷を切り落としてロシアに帰郷し、帰郷後すぐにホテル経営に参加して今後は実業家の道を進むと思われる。[7]

阿覧は9月場所の前後から気力の衰えや師匠(三保ヶ関)の停年による部屋閉鎖に傷心した様子を見せていたようであり「師匠と一緒に終わりたい」とも発言していた[8]。このことから春日野部屋に移籍する前から現役を続行する意思はなかったものと思われた。番付編成会議後の引退表明のため、11月場所の番付は幕尻(東前頭16枚目)に四股名が残った。
エピソード

幕内上位定着後は巧みな話術で支度部屋を沸かせている阿覧であるが、
日本語の習得自体は遅かったために、相撲教習所での卒業試験に合格できず、落第を経験した。2008年9月場所千秋楽における十両力士優勝インタビューでも、アナウンサーからの質問に微笑み返すか単語単位での返答しかできず、「阿覧は日本語の聞き取りは出来るが、発言はまだできない」と解説された。

2008年7月場所3日目のNHKによる新十両インタビューでは、憧れている力士は安馬(当時)であること、ロシアに居た時に白露山・露鵬などの取組を見て憧れて来日したこと、日本に来てから下半身の筋肉を中心に20kgもの増量をしたことなどを語った。

2008年12月、左ほおの内側部分に3cmほどの悪性腫瘍(口腔癌とも報じられたが後に誤報であることが発覚する)[3]が見つかり、手術した。

筋骨隆々の体を生かした、力相撲が彼の持ち味であるが、同時に立合いの変化が多いことでも知られている。叩き込みの頻度は大変なものであり、生涯戦績において決まり手の最大多数を占めるに至った。他にも引き落としで12勝、突き落としで5勝と、通算白星の半分近くが引き技で占められる。

2013年3月場所5日目の時天空戦では「廻し待った」が掛かった際に時天空と共に廻しから差し手を離してしまった。[9][10]

叩きがまともで呼び込むことが多い上に、叩く際に髷に指が入る癖もあるなど、「悪癖のデパート」と酷評されることもあった。


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