阿蘇治時
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凡例北条治時
時代鎌倉時代末期
生誕文保2年(1318年
死没元弘3年/正慶2年7月9日1333年8月19日
別名阿蘇治時、阿蘇弾正少弼、阿蘇弾正
官位従五位下
幕府鎌倉幕府
主君守邦親王
氏族北条氏 阿蘇流
父母父:北条随時(※一説によれば北条時守[1])、母:未詳
養父:北条高時
子なし(※実子として貞宗、兼貞、貞国、師頼を挙げる系図[1]もあるがこれは誤りとみられる。)

北条 治時(ほうじょう はるとき)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。父は北条随時(一説に父を北条宗時時宗の弟)の子・時守(ときもり)とするものもある[1])。得宗家の傍流・阿蘇家の4代当主。阿蘇治時(あそ はるとき)とも。別名、時治(ときはる)[2][1]

父随時が28歳の時に鎮西で誕生。鎌倉幕府第14代執権で、得宗家の総領である北条高時の猶子となる。

元弘の乱では、京都周辺で後醍醐天皇に呼応した討幕軍と交戦。 元弘2年(1332年)9月に上洛した。元弘3年/正慶2年(1333年)の赤坂城攻略戦では、大将として出陣。若年であるため、軍奉行として御内人長崎高貞(長崎高資の弟)が補佐。苦戦の末に水源を絶ち、これを陥落させた。 続いて楠木正成の本拠地千早城を攻めたが、楠木勢の頑強な抵抗に遭って落とせず、5月になって京都の六波羅探題が陥落したため、討伐軍は自壊する。治時と高貞は大仏貞宗・高直兄弟らとともに興福寺に篭り抗戦を続けた。しかし鎌倉陥落の報を聞き、般若寺出家して降伏するが京都阿弥陀寺で処刑された。享年16。



脚注^ a b c d これらの情報は ⇒こちらの系図より。ただし、治時自身が16歳で亡くなっていることや、桜田時厳の子息にほぼ同名の人物(定宗、貞国、師頼ほか)がみられ、そのうち定宗は治時の祖父にあたるので、子息に関する情報は誤りとみて良いだろう。
^こちらより。



関連項目

太平記

千早城の戦い

先代:
北条随時阿蘇流北条氏
4代次代:
-

 

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更新日時:2013年7月27日(土)06:16(日時は
取得日時:2013/08/12 20:53


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