阿蘇惟豊
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 凡例阿蘇 惟豊
時代戦国時代
生誕明応2年(1493年
死没永禄2年11月7日1559年12月5日
墓所熊本県山都町下市
官位従二位・阿蘇大宮司[1]
氏族阿蘇氏
父母父:阿蘇惟憲
兄弟惟長(菊池武経)、惟豊
入田親誠正室、惟将惟種
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阿蘇 惟豊(あそ これとよ)は、戦国時代武将肥後国戦国大名阿蘇氏阿蘇神社宮司)。甲斐親宣親直(宗運)父子の補佐を受け、阿蘇氏の最盛期を築いた。阿蘇五ヶ所衆の一人。
生涯

明応2年(1493年)、阿蘇氏当主・阿蘇惟憲の子として誕生。

永正2年(1505年)、肥後守護菊池氏を乗っ取った兄・惟長(菊池武経)に家督を譲られ、当主となる。ところが永正10年(1513年)、阿蘇氏当主への復帰を目論んだ惟長の攻撃を受け、日向国へ逃れる。高千穂鞍岡の国人甲斐親宣の支援を受け、永正14年(1517年)に阿蘇氏の本拠地・矢部を奪還する。その後も惟長とその子・惟前と抗争を繰り広げ、天文12年(1543年)に堅志田城を落として惟前を敗走させ、30年に及んだ阿蘇氏の分裂に事実上の終止符を打った。

天文18年(1549年)、朝廷に御所修理料として1万疋を献納し、後奈良天皇から従二位に叙せられた。また天文9年(1540年)、後奈良天皇宸筆の「般若心経」を受納し、阿蘇上宮に社納したという[1]

娘が大友家重臣入田親誠に正室として嫁いでいたため、二階崩れの変で主家を追われた親誠を保護したが、同事件の元凶の一人であった事を嫌って天文19年(1550年)に誅殺している。

永禄2年(1559年)、死去。墓地は熊本県山都町下市の通潤橋岩尾城がよく見える位置にある[2]
脚注[脚注の使い方]^ a b 『熊本県大百科事典』18頁
^ 道の駅から徒歩2分のところにある。近年、地元住民によりきれいに整備されている。

出典

熊本日日新聞編纂・発行『熊本県大百科事典』、1982年

阿蘇惟之編『阿蘇神社』学生社、2007年


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