阿波電気軌道
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阿波電気軌道の開通線と未成線の路線図、周辺の国鉄線を含む、国鉄による買収後、緑線の区間が建設されて高徳線が全通し、残りの区間が鳴門線、鍛冶屋原線となって、吉成-古川は廃止となった

阿波電気軌道(あわでんききどう)は、徳島県徳島市板野郡撫養町(現在の鳴門市撫養町)を結ぶため建設された鉄道路線およびその運営会社である。後に阿波鉄道(あわてつどう)に改称され、国有化により現在の四国旅客鉄道(JR四国)高徳線の一部及び鳴門線鍛冶屋原線1972年廃止)となる。当初計画していた電化はされず[注釈 1][注釈 2]動力は蒸気で終始し、徳島市への乗入れも徳島市内の用地買収難と吉野川に架橋が不可能で船舶による連絡吉野川連絡船)であった。
歴史
阿波電気軌道

徳島市と板野郡撫養町を結ぶ鉄道構想は、1908年(明治41年)撫養町の手塚尉平[1]ら有志によりすすめられ、1911年(明治44年)6月、電車による敷設免許の申請がおこなわれ手塚および川島町の後藤田千一[注釈 3]ら17名の発起人に対し12月23日免許状が下付された。その後、1912年(大正元年)11月に阿波電気軌道(資本金40万円)を設立。社長には後藤田が就任し、手塚尉平は支配人となる[注釈 4]

徳島と撫養の経路は別宮川(吉野川)を挟んで徳島市出来島町字本町から名東郡加茂村上助任までと板野郡応神村大字古川村から撫養町大字南浜村字東浜文明橋西詰までの2線とし、上助任から古川間は別宮川(吉野川)を連絡船で結ぶ計画であった[2][注釈 5]。各所の橋のほとんどが木橋でレールも38ポンドまたは25ポンドの軽いものを使用することして[注釈 6]、1914年(大正3年)10月に着工した[3]。しかし文明橋西詰では付近に塩田があり業者の反対があったため暫定措置として南浜字権現に撫養駅(初代)を設置することとなり[注釈 7]、徳島市出来島町字本町-名東郡加茂村上助任間も市街地のため買収交渉が難航し測量もできなかった[4]。このため連絡船の経路を応神村中原から別宮川を渡り新町川をへて徳島市内に至る航路に変更した。さらに電力供給を予定していた徳島水力電気[注釈 8]の発電能力には余裕が無いことが判明。自前で火力発電所を建設するには費用がかかりすぎるため当面の間だけの方針で蒸気鉄道に変更することとした。また軌間も当初1435mmとしていたが国鉄と同じ1067mmに変更した。総工費は約62万円となりこうした苦労の末1916年(大正5年)7月撫養(初代)- 古川が開通した。開通時は1日8往復所要時間は撫養- 古川間を45分、中原-富田橋を45分であった[5]。なお時刻表など[6]では阿波軌道と称されていた。

また撫養-古川間の計画に続いて鍛冶屋原方面の支線も計画した[注釈 9]1913年(大正2年)8月に板野郡堀江村 - 同郡板西町間の免許状が下付され、続いて1914年(大正3年)4月に板野郡板西村 - 同郡松島村間の免許状が下付された。ところがその後別会社で建設することに変更され、上板軽便鉄道を設立(1916年設立、資本金20万円、本社は阿波電気軌道本社内)[7][注釈 10]。再度免許の申請をし免許状が下付されたが、再度阿波電気軌道が建設することに方針を転換し、免許を取り直すなど迷走した。ようやく1919年(大正8年)になり着工。用地の売却を渋る地主には土地収用法により対処した[8]。しかしこの建設には大小11の河川がありその架橋や天井川のトンネル[注釈 11]など多額の工事費と第一次大戦後の物価高騰などで建設資金が不足し、1921年(大正10年)阿波郡土成村出身の代議士松島肇[9][注釈 12]から20万円、関西貯蓄銀行[注釈 13]から26万円の融資を受けるなどして[10]1923年(大正12年)2月上板線(池谷 - 鍛冶屋原間)が開業した。ところが開業直後に池谷駅構内で列車事故による死傷者が発生した。旧正月で大麻比古神社への参詣客を満載しており被害を大きくした。この事故は阿波電気軌道には大きな痛手となった[11]。さらに上板線の総工費約80万円[注釈 14][12]は阿波電気軌道の経営を圧迫。工事中から土地買収代金の支払を遅延しており、さらに8月には機関士の賃金未払いもあり、ついに1924年(大正13年)従業員が会社を占拠し、経営陣に代わり運行する事態となった[13]
阿波鉄道 - 安田保善社による経営

このころの阿波電気軌道は、鉄道財団抵当借入金約40万円、支払手形約50万円という多額の負債をかかえていた[14]。一方融資をしていた関西銀行(旧関西貯蓄銀行)は経営危機により安田保善社が救済中[注釈 15]であって、この鉄道の経営にもかかわるようになる[14]。1925年(大正14年)8月の株主総会において優先株913,000円の増資をおうこなうこととし経営陣を一新、安田より関西銀行に派遣されていた池田真?が社長、ほかに3名が役員となった。11月に池田は四国銀行[15](頭取安田善兵衛)常務取締役に就任したので社長兼任[16]のまま高知に移り代わりに吉原政智が支配人として派遣された[17]。1926年(大正15年)5月に阿波鉄道に社名変更した[18]

1925年(大正14年)12月から列車運行は大きく減便された。中原 - 古川間を1日2往復[注釈 16]へ、上板線も鍛冶屋原まで9往復から6往復へ、撫養 - 中原間及び連絡船も16往復から11往復に削減した[19]。これにより石炭消費量は以前より1/2以下の1日当たり1700斤に節減することができた[20]。一方県から木製橋脚の腐朽、レールの亀裂、橋台の沈下など7つの改善命令が出されていたため、鉄製橋へ架け替え、レールの交換さらに車両も修繕した[20]。そして工事が中止となっていた撫養から岡崎港までの工事を再開することとした。しかし、岡崎港まで用地買収難のため建設できず、1928年(昭和3年)1月18日 まで0.97km延長し撫養駅(2代。現在の鳴門駅)を設置。初代撫養駅はゑびす前駅と改称した。そして撫養駅より岡崎桟橋までの乗合自動車線(岡崎線)の運行開始と中原-古川間を定期運行にし、古川駅より完成したばかりの古川橋[21]を渡り徳島駅前を経由して新町橋に至る乗合自動車線(古川線)の運行を開始した[22]。これは撫養町より岡崎、徳島駅前までの路線を運行していた撫養自動車[23]に対抗するためであった。これより撫養川を発着する船舶との連絡が便利となり利用客は増加した。夏期には新町橋から津田沖洲海水浴場まで2隻の巡航船で旅客を輸送しさらに2隻を借りて運行するなど好評を博した[24]

ところが1929年(昭和4年)に下板自動車[25]が徳島-加賀須野(川内村)の乗合自動車路線を開業させその後大津村まで延長したため、旅客争奪戦はいっそう激しくなり運賃値下げ競争もおこなわれた[26]。そのうえ不況の中であり阿波鉄道の経営は悪化していった。1929年には工事を中断し、竣功期限延期申請をしていた徳島市出来島町-加茂村間、撫養-阿波岡崎間、松島村-市場町間が敷設免許を取り消された。1930年(昭和5年)6月徳島市営バス[27]に古川-徳島駅間のバス路線(古川線)を譲り、しばらくして岡崎線も廃止した[28]


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