阿波野秀幸
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阿波野 秀幸読売ジャイアンツコーチ時代
基本情報
国籍 日本
出身地神奈川県横浜市保土ケ谷区(現:旭区
生年月日 (1964-07-28) 1964年7月28日(59歳)
身長
体重178 cm
75 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1986年 ドラフト1位
初出場1987年4月12日
最終出場2000年10月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


横浜市立桜丘高等学校

亜細亜大学

近鉄バファローズ (1987 - 1994)

読売ジャイアンツ (1995 - 1997)

横浜ベイスターズ (1998 - 2000)

コーチ歴


読売ジャイアンツ (2001 - 2005)

横浜ベイスターズ (2006)

住友金属鹿島

読売ジャイアンツ (2012 - 2018)

中日ドラゴンズ (2019 - 2021)

読売ジャイアンツ (2023)

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阿波野 秀幸(あわの ひでゆき、1964年7月28日 - )は、神奈川県横浜市保土ケ谷区(現:旭区)出身[注 1]の元プロ野球選手投手)、プロ野球コーチ野球解説者マネジメント契約先はスポーツビズ
経歴
プロ入り前

父親が地元の少年野球チームでコーチをしていたその影響から、小学4年生の時から野球を始める[1]横浜市立鶴ヶ峯中学校時代、東海大学付属相模高等学校からの誘いを受けていたにもかかわらず[2]、あえて公立の横浜市立桜丘高等学校を志望し、塾通いをして文武両道を目指した。桜丘高校では3年夏の神奈川大会は4回戦で敗退し、甲子園出場経験はなかった。

高校卒業後は亜細亜大学に進学(同期にパンチ佐藤、1年後輩に与田剛がいる)。東都大学野球リーグで通算62試合登板、32勝17敗、防御率1.83、282奪三振。最高殊勲選手に1度、最優秀投手に3度、ベストナインに3度選ばれた。4年秋の9勝はリーグタイ記録で、駒澤大学との優勝決定戦では延長13回を投げて自身も4安打を放つが敗れた。

1986年度ドラフト会議にて読売ジャイアンツ横浜大洋ホエールズ近鉄バファローズの3球団が1位指名で競合。阿波野の意中球団は巨人か大洋と言われていたが、抽選の結果、交渉権確定のくじを引き当てたのは、「指名するという事前のあいさつが一切なかった[1]」という近鉄だった。当時の近鉄監督岡本伊三美は、亜細亜大の監督から聞いた話として「試合で打たれると頭を壁にぶつけて悔しがっていた」「打者の膝から上の球はきませんよ」[3]などと、また阿波野の入団前に接した際に、阿波野が関西のことはわからず、「近鉄という会社はどこにあるのですか」ときいてきた、と振り返っている[3]。そういうこともあって、交渉権が近鉄に決まった時には「呆然とした」という[1]。亜細亜大監督の内田俊雄は「挨拶もしないままで指名してくるなんてあり得ない」としてこのドラフト当日は祝福の胴上げなどせずそのまま帰し、同じく総監督の矢野祐弘は、しばらくはグラウンドに近鉄のスカウトが来ても追い返していたという[1]。担当スカウトは河西俊雄[4]。阿波野を外した巨人は木田優夫、大洋は友利結を再指名で獲得。
近鉄時代

1987年は15勝・両リーグ最多の201奪三振・249.2イニングを記録。1986年ドラフト1位でプロ入りした同期の西崎幸広日本ハム)と熾烈な新人王争いを繰り広げた。阿波野は32試合登板で15勝12敗・防御率2.88、西崎は30試合登板で15勝7敗・防御率2.89と甲乙つけがたい成績を残したが、結果は大差がついて阿波野が新人王に選出された。両者は共に「トレンディエース」と呼ばれ(「トレンディエース」については西崎幸広参照)、特に女性に高い人気を誇った。

1988年もエースとして14勝を挙げた。ナゴヤ球場でのオールスターゲーム第2戦先発し3回を被安打0自責点0奪三振3を記録。レギュラーシーズン優勝のかかったロッテオリオンズとの川崎球場でのダブルヘッダー、いわゆる「10.19」に、両試合とも当時の抑え吉井理人の後を受け連投。この試合の2日前、阿波野は対阪急戦で完投しており疲労が残っていた。第1試合では9回、1点リードで二死満塁のピンチを迎えたが、森田芳彦を三振にしとめ、逃げ切った。このとき阿波野は帽子を鷲掴みにしてガッツポーズした。しかし、第2試合に1点リードの8回、高沢秀昭に痛恨の同点本塁打を打たれた。この後、ショックで記憶が飛び、なぜ捕手山下和彦のサインで指示された自分のストレートを信頼できなかったかと悔いが残ったという[5]

その後9回無死一・二塁で古川慎一牽制球で刺した記憶もはっきりしていなかったというが、ここでロッテ監督の有藤道世が判定を巡り9分間にわたって抗議を続け試合は中断したことも影響し、第2試合は引き分けに終わり近鉄は優勝を逃した。「10.19」も参照

10.19で苦い思いをしたが本来はロッテを得意としていた。この1988年は4勝1敗、翌1989年は4勝0敗の成績を残しており、通算67勝のうち21勝をロッテから挙げている。

1989年は、前年の雪辱を特に意識して迎えたという。終盤、10月12日のダブルヘッダー第2戦や優勝決定の場面で登板した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}10月12日について、阿波野は10.19でも負けていないことからダブルヘッダーと決まった時点で「よーし」となったと振り返っている[要出典]。優勝決定の場面では、前年「10.19」での思いからストレートを続けたという[6]最多勝(19勝[7])、最多奪三振(183個)のタイトルを獲得し、近鉄の優勝に貢献。巨人との日本シリーズでは第1戦・第5戦に先発し同い年の斎藤雅樹と2度も投げ合い、第1戦の完投勝利を含む15イニングを投げ、1勝1敗、5失点の成績で、優秀選手に選ばれた。最多勝と最多奪三振のタイトル料がプラスされた結果、入団からわずか3年で年俸7000万円に上がり、「入団当時(580万円)に比べたら、想像がつかない額ですよ」[8]と述べていた。

1990年からボーク判定が厳格化され、その影響で当時近鉄と毎年激しい優勝争いを繰り広げていた西武監督の森祇晶、そして当時の三塁ベースコーチの伊原春樹は阿波野の牽制がボークではないかと執拗に抗議。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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