阿波踊り
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この項目では、徳島県の盆踊りについて説明しています。

徳島市で8月に開催される阿波踊りについては「徳島市阿波おどり」をご覧ください。

徳島県の地鶏については「阿波尾鶏」をご覧ください。

徳島市阿波おどり男踊りは振りが大きいのが特徴

阿波踊り(あわおどり)は、阿波国(現・徳島県[注 1])を発祥とする盆踊り[1]。高知のよさこい祭りと愛媛の新居浜太鼓祭りと並ぶ四国三大祭りであり、日本三大盆踊りの一つとしても知られる。

明治5年12月3日旧暦天保暦)が明治6年1月1日新暦グレゴリオ暦)に改暦されてからお盆の開催時期が移動し、盆踊り(阿波踊り)の開催日も旧暦・新暦・月遅れ・週末開催・任意の日など、お盆との関連が薄まって様々な日程で開催されるようになった。

現在は、阿波国以外にも伝播し、東京都などでも大規模に開催されるようになった。日本三大盆踊り四国三大祭りの代表的な存在であり、約400年の歴史を持つ日本の伝統芸能のひとつである[1]徳島市阿波おどり」(月遅れの8月12日 - 15日に開催)が踊り子や観客数において国内最大規模である。
概要徳島市阿波おどり(水玉連の女踊り)動画。
2016年8月13日撮影。22秒を129フレーム(約13秒)に分割ループ。

三味線太鼓鉦鼓篠笛などの2拍子の伴奏にのって連(れん)と呼ばれる踊り手の集団が踊り歩く。

えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ、踊る阿呆(あほう)に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々…と唄われるよしこののリズムで知られる。しかし実際には、よしこのは大手の有名連以外ではあまり使われず、主にヤットサーヤットサーという掛け声のほうが多用されている。

「阿波踊」の名称は明治42年11月8日付「大阪朝日新聞阿波付録」が初出で、大正3年4月1日付「徳島毎日新聞」の記事では「徳島踊」と「阿波踊」の両方が用いられている[2]。元来、盆踊りの時期のものを「阿波の盆踊り」または単に「盆踊り」、盆以外にイベントで踊られるものを「阿波踊り」と呼んでいたとされる[2]。昭和初期になって日本画家林鼓浪が「阿波の盆踊り」にかわって「阿波踊り」を用いることを提唱して世間に広まるきっかけになった[2]。なお、徳島市や高円寺の阿波踊りではポスター看板等においてもっぱら「阿波おどり」と表記される。また、徳島県が発行する印刷物等においても「阿波おどり」で統一されている。

徳島県内の小・中・高校では体育の授業や体育祭などで「阿波おどり」を演目として採用している学校も多数あり、徳島県民の代表的な踊りである。
歴史
近世

阿波踊りの起源に関しては三大起源説が知られている[3]
築城起源説
天正14年(1586年)あるいはその翌年に徳島藩藩祖の蜂須賀家政が無礼講として踊りを許したことを起源とする説である[3]
盆踊り起源説
鎌倉時代の念仏踊りから続く先祖供養のための踊りを起源とする説である[3]
風流踊り起源説
戦国時代末期に勝瑞城で行われていた風流踊りを起源とする説である[3]

一般的には盆踊りが基となって、組踊り、ぞめき踊り、俄(にわか)などの民衆芸能を取り入れ、庶民に支えられながら徳島の伝統芸能として定着してきたものと考えられている[3]

吉野川中下流域は阿波の「北方(きたがた)」と呼ばれる地域では作が盛んで、この阿波藍業による地域の経済力がその存立基盤となったとされる[3][4]。この藍業、藍商の繁栄により阿波では人形浄瑠璃や三味線など芸事が興隆したが、特に藍商は淡路や大坂からプロの芸能者集団を呼び込み興行させるプロモーターとしての役割を果たすなど、商人層が民間芸能の発展を主導した[4]
近現代

阿波踊りは原初形態では盆踊りがベースになっていると考えられているが、藩政期から盛んだった俄や組踊りなどは明治時代にも引き継がれ行進型の乱舞がみられた[3][4]。しかし、明治国家の「文明開化」路線とは相容れないものと捉えられ、徳島県当局から1868年から1870年の3か年にわたって取締令が出された[4]。また、明治20年代末以後、インド藍の流入とドイツからの合成染料の本格的な輸入により、藍産業は急激に衰退し民間芸能に停滞をもたらした[3][4]

しかし、大正時代になり第一次世界大戦中の青島陥落(1914年)、大正天皇即位(1915年)さらに徳島市制30周年(1918年)など盆以外の時期に開催された祝賀奉祝行事で踊りが催行されたことを契機に、再び盆踊りが盛り上がりをみせ始めた[4]。大正末期には景気の後退や疫病の流行などで踊りの熱気は冷めてしまったが、地域振興策として商工会議所などが主導して盆踊りの観光資源化が推進された[3][4]

また大正末期には徳島商工会議所や地元新聞社が主導して、徳島県外への盆踊りの宣伝活動に積極的に乗り出し、初の県外遠征として、1916年に和歌山県商工会議所の要請で紀三井寺千日参りに踊り子が派遣された[4]。さらに1921年3月には神戸開港50周年祝賀行事に招待され、神戸市内で阿波踊りを披露している[4]

第二次世界大戦中には阿波踊りは中断を余儀なくされたが、戦後、1946年にはGHQ(連合国軍総司令部)と徳島県警察部保安課の折衝により復活が実現した[3][4]。詳細は徳島市阿波おどりを参照。

一方で1950年代には阿波踊りの観光資源としての価値を高めるため、徳島県、徳島市、徳島市観光協会などが中心となって徳島県外や日本国外で宣伝活動を行った[4]。特に1954年からは毎年京阪神に「キャラバン隊」が派遣された[4]

さらに1960年代から1970年代にかけて関東地方の約50か所で阿波踊りのイベントが開催されるようになり、1970年代には阿波踊りは日本全国へ伝播した[4]。首都圏で嚆矢となったのは東京・高円寺であるが、開催が始まったのは1957年のことであった[4]。詳細は東京高円寺阿波おどりを参照。
高円寺阿波おどりの粋輦

阿波踊りの踊りのグループを「連(れん)」という[2]。連の規模は平均数十人程度であるが、踊り子や鳴り物のメンバーを含め100?200人規模の大きな連もある[2]

連には、阿波おどり振興協会・徳島県阿波踊り協会・阿波踊り保存協会のいずれかに所属する卓越した技術を持つ「有名連」、大学生などを中心に結成される「学生連」、会社や企業が結成する「企業連」などがある[2]
徳島県内の有名連
娯茶平
連員350人を超える徳島県最大規模の連であり、賜天覧4連のうちの一連。


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