阿波狸合戦
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この項目では、阿波の民話について説明しています。1939年公開の映画については「阿波狸合戦 (映画)」をご覧ください。
金長の像(金長神社

阿波狸合戦(あわたぬきがっせん)は、江戸時代末期に阿波国(後の徳島県)で起きたというタヌキたちの大戦争の伝説。阿波の狸合戦(あわのたぬきがっせん)[1]、金長狸合戦(きんちょうたぬきがっせん)ともいう[2]

四国に数あるタヌキの話の中でも特によく知られており[3][4][5]、徳島のタヌキの話の中でも最も名高いものともいわれる[6]。物語の成立時期は江戸末期と見られており[7]、文献としての記録は江戸後期に出た写本の三種『近頃古狸珍説』『古狸金長義勇珍説』『金長一生記』だが、詳しい年代はわからない。講談速記本として世に流通したのは1910年明治43年)に刊行された『四国奇談実説古狸合戦』『津田浦大決戦』『日開野弔合戦』の三冊とされる[8]明治時代から戦中にかけては講談で、昭和初期には映画化されて人気を博しており、平成期以降には徳島県のまちづくりの題材となって、徳島県民に親しまれている。
伝説

後述する金長神社の社伝や、徳島県出身の考古学者笠井新也の著書『阿波の狸の話』から伝説を要約すると、以下のようになる。

天保年間(1830年から1844年まで)、小松島の日開野(後の小松島市神田瀬町)での話。大和屋(やまとや[9])という染物屋を営む茂右衛門(もえもん[9])という者が、人々に虐められそうなタヌキを助けた[10][11]。間もなく、大和屋の商売がどんどん繁盛し出した。やがて、店に務める万吉という者にタヌキが憑き、素性を語り始めた。それによればタヌキは「金長(きんちょう)」といい、206歳になる付近の頭株だという。万吉に憑いた金長は、店を訪れる人々の病気を治したり易を見たりと大活躍し、大評判となった[10]

しばらく後、まだタヌキとしての位を持たない金長は、津田(後の名東郡斎津村津田浦、現・徳島市津田町)にいるタヌキの総大将「六右衛門(ろくえもん)」のもとに修行に出た。金長は修行で抜群の成績を収め、念願の正一位を得る寸前まで至った。六右衛門は金長を手放すことを惜しみ、娘の婿養子として手元に留めようとした。しかし金長は茂右衛門への義理に加え、残虐な性格の六右衛門を嫌ってこれを拒んだ。

これを不服とした六右衛門は、金長がいずれ自分の敵になると考え、家来とともに金長に夜襲を加えた。金長は、ともに日開野から来ていたタヌキ「藤ノ木寺の鷹」とともに応戦した。しかし鷹は戦死し、どうにか金長のみが日開野へ逃れた。

金長は鷹の仇討ちのため同志を募り、六右衛門たちとの戦いが繰り広げられた。この戦いは金長軍が勝り、六右衛門は金長に食い殺された。しかし金長も戦いで傷を負い、まもなく命を落とした[10]

茂右衛門は正一位を得る前に命を落とした金長を憐み、自ら京都の吉田神祇管領所へ出向き、正一位を授かって来たという[12]

この戦いの頃、六右衛門へ攻め込む金長軍が鎮守の森に勢揃いすると、人々の間で噂されていた。人々が日暮れに森へ見物に押しかけたところ、夜ふけになると何かがひしめき合う音が響き、翌朝には無数のタヌキの足跡が残されており、合戦の風説も決して虚言ではないと話し合った[10]
異説

この伝説を紹介している書籍には、媒体によっていくつかのバリエーションがある。これは本来の地元の口承が後述する講談の影響を受けて変化したのではないか、とも見られている[3]

六右衛門の娘の名は「小安姫(こやすひめ)」。彼女は金長に恋焦がれており、金長を攻めようとした六右衛門側を批難し、ついには自刃することで父を咎めようとした。だが、小安姫の死によって却って六右衛門の憎悪が増長した。また、金長も、自分を愛してくれた小安の死を知り、打倒六右衛門の決意を固めた[13]
勝浦川

合戦の舞台である勝浦川を挟み、金長軍総勢600匹余り、六右衛門軍総勢600匹余りが対峙し、死闘は3日3晩に及んだ[13]


淡路島化け狸である芝右衛門狸も、合戦に参戦しに阿波に向かった[14]。(津田に向かう途中、二軒屋の観音寺にて武士の姿に扮して芝居を見ていたが犬に噛み殺され死体は三日間武士の姿のままだったという。このエピソードは浪速の中座での出来事が転用されたとみて良いと思われる。)


金長は合戦で致命傷を負ったものの、必死に日開野へ帰り、恩義ある茂右衛門に礼を述べ、力尽きた。その生き様に心を打たれた茂右衛門は、金長を大明神として祀った[15]


瀕死の金長は、霊となって万吉に憑き、死後も霊として永遠に茂右衛門の家の神として報恩を誓った。これに心を打たれた茂右衛門は、金長を大明神として祀った[16][17][18]


金長と六右衛門の戦死後、2代目の金長と六右衛門の息子との間で弔い合戦があったが、讃岐屋島(後の香川県高松市屋島)の化け狸である太三郎狸(屋島の禿狸)が仲裁に入り、合戦は終結を迎えた[14]

由来

天保年間には、大和屋に助けられたタヌキが恩返しをしたという動物報恩譚があったため、これを由来とする説がある[19]。その後のある年、勝浦川の河川敷に多数のタヌキの死体があった事実が加わり[20]、それらを講談のように仕立て、金長と六右衛門の二大勢力の激突の話が誕生したという説もある[19]

一方では、この合戦における争い、悲恋、葛藤などは人間社会でも珍しくなかったため、阿波狸合戦の実態は、人間社会での出来事をタヌキに置き換えたものとも考えられている[21]

徳島の修験道霊山では別派同士の争いがあったこと、伝説を綴った古書『古狸金長義勇珍説席』で投石の場面があり、投石は中世以来の戦闘手段であったことから、太竜寺山剣山との間で生じた修験道の争いがタヌキの伝説に仕立て上げられたのではないか、という説もある[22]。この説においては、太龍寺の修験者が金長、剣山の修験者が六右衛門のモデルになったと考えられ、太竜寺山から北上しようとする勢力と剣山から南下しようとする勢力が衝突し、流派や拠点の異なる者同士の紛争に繋がった可能性が示唆されている[22]

また、徳島県では藍染めが盛んであり、その工程でを用いる。そして津田浦で採れる砂は藍染めに最適であった。よって、勝浦川の両岸地域で砂を巡る争いが起き、これが狸合戦の題材になったという説がある[23]。さらに、津田地区と小松島の間の漁業権の争いがモデルになったとの説もある[23][24]。六右衛門の史跡のある津田寺(後述)の住職である浅川泰敬も、この漁業権の争いを由来とする説を支持している[25]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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