阿波国
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、徳島県にあった令制国について説明しています。

千葉県南部にあった令制国については「安房国」をご覧ください。

のちにその安房国の西部となる、阿波国造が支配した地域については「阿波国造#支配領域」をご覧ください。

阿波国

■-阿波国
■-南海道
別称阿州(あしゅう)
所属南海道
相当領域徳島県
諸元
国力上国
距離中国
数9郡45郷
国内主要施設
阿波国府徳島県徳島市
阿波国分寺徳島県徳島市(阿波国分寺跡
阿波国分尼寺徳島県名西郡石井町(阿波国分尼寺跡)
一宮八倉比売神社(徳島県徳島市)
上一宮大粟神社(徳島県名西郡神山町
一宮神社(徳島県徳島市)
大麻比古神社(徳島県鳴門市
テンプレートを表示

阿波国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。徳島県にあたる。

 
「阿波」の名称と由来

古代、現在の徳島県の北の地域はの生産地だったために粟国、南の地域は長国と呼ばれていた。『古語拾遺』によれば、神武東征において忌部氏を率いて、木国材木を採取し畝傍山橿原宮を造営した天富命が、肥沃な土地を求め当地の開拓をし、穀・麻種を植えたという[注釈 1]。のち、律令制において長国造の領域を含め令制国としての粟国が成立した。和銅6年(713年)、元明天皇による好字令で、地名を二字で表記するため「粟」は「阿波」に変更された。

なお、同音の安房国は、阿波国から移り住んだ人々が開拓したことから名付けられたとする説が『古語拾遺』にある。
沿革徳島城三の丸石垣と城山

中世鎌倉時代においては鎌倉幕府により佐々木氏、小笠原氏が守護に任ぜられた。室町時代には三管領家の一つである細川氏の支配するところとなるが、戦国時代の到来により小笠原氏の庶流である三好氏がこれに代わることになった。三好氏は三好之長三好元長の代には京都にも進出し、管領細川氏の重臣として阿波を本国に畿内で権勢を振るうことになる。1540年代に三好氏は三好長慶の代で最盛期を迎え、長慶の次弟である三好実休が阿波を、三弟安宅冬康が淡路を、末弟十河一存が讃岐を統治し、長慶自身は京都の幕府の元で管領代として中央政治に関与し、本国である阿波の他、弟達の統治する讃岐、淡路、更に和泉や摂津、河内や山城、大和、丹波に加えて若狭や播磨の一部をも支配下に置いて三好氏は勢力的にも歴史的にも最盛期を迎えた。(三好政権。)しかし1561年に一存が急死、1562年に実休が戦死。さらに追い打ちをかけるように1563年に長慶の嫡男で将来を有望されていた三好義興が病死すると、長慶は精神を病んで病気がちになる。三好氏の勢力は後退し1564年には安宅冬康が長慶によって誅殺される。(理由は不明。この頃の長慶は精神的にも病んでおり、判断力が低下していた。)さらに長慶自身も弟達、息子のあとを追うように1564年に病死する。

家督を継いだ三好義継飯盛山城若江城を本拠に三好氏の勢力を保持しようとするも三好三人衆や重臣松永久秀らの主導権争いによる内紛を経て三好氏は弱体化。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:48 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef