阿波国造
本姓大伴氏
家祖大伴直大瀧
阿波国造(あわのくにのみやつこ、あわこくぞう)は、のちに安房国西部となる地域(阿波国)を支配した国造。
概要
表記』や『北山抄』には安房国造とも表記される。
律令制においては「阿波国」の表記は南海道の旧粟国が使用した(阿波国)ため、阿波国造が支配した東海道の阿波の地名は安房と表記されるようになった(安房国、安房郡など)。これに伴い、阿波国造も安房国造と表記するようになった。『日本文徳天皇実録』の嘉祥3年(850年)6月己酉(3日)条(神道・神社史料集成参照)によれば伴直千福麻呂という人物が「安房国々造」であったという。また『先代旧事本紀』の「国造本紀」の伊甚国造条によれば、伊許保止命という人物が「安房国造」の祖であるという。ただしこの伊甚国造条の「安房国造」は前田侯爵家[注 1]所蔵安貞年間古写本などにおける表記であり、神宮文庫本では「安度国造」と表記されている[2]。
『洞院家記』や『北山抄』によれば、安房国造は10世紀頃までの継続が確認される[3][4][5]。 大伴氏(おおともうじ、姓は直)で、出雲国造、武蔵国造などと同系。天皇の食膳調達(特にアワビの貢納)にあたる部民氏族の膳大伴部
祖先
物部・武蔵国造系
『先代旧事本紀』の「国造本紀」によれば、成務天皇(第13代天皇)の時代に天穂日命の8世孫の彌都侶岐命の孫の大伴大瀧が初代阿波国造に任命されたという。
また同じ『先代旧事本紀』「国造本紀」の伊甚国造条には、成務天皇の時代に安房国造の祖の伊許保止命の孫の伊己侶止直(直は姓)が初代伊甚国造に任じられたとある。ただしこの伊甚国造条の「安房国造」は前田侯爵家[注 1]所蔵安貞年間古写本などにおける表記であり、神宮文庫本では「安度国造」と表記されている[2]。
氏族
なお同じく大伴氏から伴氏に改姓した氏族には、ヤマト王権の有力豪族で物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている大伴氏(姓は連のち宿禰)のち伴氏(姓は宿禰のち朝臣)がおり、大伴部はこの大伴氏の管掌する部をさす場合もある。 国造のちの安房国安房郡[7]で、現在の千葉県館山市[7]。安房郡の郡司職を担ったのは安房国造(阿波国造)一族であったと見られている[3][4][8]。 阿波国造の支配領域は当時阿波国と呼ばれていた地域である。阿波国はのちの令制国の安房国の西部(安房郡と平群郡)をさし、現在の千葉県館山市と安房郡鋸南町および南房総市の一部に当たる。後に阿波国の北部は平群郡、南部は阿波郡となった[9]。 なおのちの安房国東部(長狭郡と朝夷郡)、現在の千葉県鴨川市と南房総市の一部にあたる地域には長狭国造の支配する長狭国があったが、この国造は『先代旧事本紀』「国造本紀」に記載されていない。これは長狭国が北に『日本書紀』安閑天皇元年(534年)4月条にみえる伊甚屯倉に接し、また南からは阿波国造の圧迫を受けて、長狭国造が7世紀には勢力を失ったためと見られている。 阿波の地名の由来は、『古語拾遺』によれば、神武天皇(初代天皇)の東征(神武東征)において橿原宮を造営した天富命が、同天皇の時代に[9]より豊かな土地を求めて四国の阿波[注 2]の忌部氏を従え黒潮にのってこの地に移り住み、阿波忌部の居住地を元居た場所の地名から阿波と名付けたことであるという。阿波国など十数カ国は総国(?国)と呼ばれたが、『古語拾遺』によれば天富命が植えた麻の育ちが良かったために、麻の別称である「総」から、「総国」(一説には「総道」)と命名したと言われている。 『高橋氏文』は、景行天皇(第12代天皇)東国巡狩の折、磐鹿六雁命が膳大伴部を賜わり、子孫を上総国・淡国の長と定めたとしている[注 3]ので、この時代には淡国と呼ばれていたことが分かる。なおこの東国巡狩の折の記述として、『日本書紀』には淡国ではなく淡水門が登場し(景行天皇53年10月条)、阿波国の名称はこれに因むとする説もある[10]。 阿波国など11国(阿波国、長狭国、須恵国、馬来田国、菊麻国、伊甚国、上海上国、武社国、下海上国、千葉国、印波国)は総国(?国)と呼ばれた。安閑天皇元年(534年)(『帝王編年記
本拠
支配領域