阿曇氏
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阿曇氏(安曇氏)

氏神とする志賀海神社福岡県福岡市
氏姓阿曇宿禰
始祖綿津見命
種別神別地祇
本貫筑前国糟屋郡阿曇郷
凡例 / Category:氏

阿曇氏(あずみうじ、安曇氏とも)は、「阿曇(安曇)」をの名とする氏族

海神である綿津見命を祖とする地祇系氏族。
概要

記紀』に登場し、『古事記』では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記され、『日本書紀』の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記されている。その他、『新撰姓氏録』では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」と記される。

「阿曇」と「安曇」の表記について、田中卓は、本来は「阿曇氏」であったのが、天平3年(731年)以前に「安曇氏」と書かれるように変更されたと発表した。ただし、全てが一度に変更されたのではなく、安曇広麻呂のように、どちらの表記も用いられる場合もあったという[1]。それに対して、青木治は和銅6年(713年)の好字二字令の時であるとした[2]

氏人として、『高橋氏文』にある崇神朝に初めて御膳を奉った大栲成命(大栲梨命とも)、『肥前国風土記』に記録される景行朝阿曇百足(『播磨国風土記』では孝徳朝の人物とされるが、加藤謙吉は、史料ごとに時代に大きく差があるのは、百足が安曇氏の祖としての伝説上の人物であったからであるとしている[3])、応神天皇三年紀や『筑前国風土記』に登場する大浜宿禰履中天皇即位前紀に見える阿曇浜子舒明朝百済へ派遣された阿曇比羅夫斉明朝天智朝に活動した阿曇頬垂などがいる。
歴史

全国の阿曇部を管掌した伴造として知られる有力氏族[4]、発祥地については筑前国糟屋郡阿曇郷・志珂郷(現在の福岡市東部)説、淡路島説などがある[4]

安曇氏は、日本各地に個々に成立していた海人集団の長が、6世紀以降王権に隷属する過程で1つの氏に統合されたと考えられられる[3]

以下の記述は『日本書紀』、『風土記』による[5]

景行天皇82年には、熊襲征伐に向かう途中、筑紫において、土蜘蛛を討伐しようとしたが、抵抗が激しかったため、志我神を祀ったという。また、『肥前風土記』によると、景行天皇が巡幸したとき、供者の安曇連百足に命じて、近くの島を視察させたところ、大耳、垂耳という土蜘蛛がいたため、百足は彼らを捕らえた。彼らは貢物をすることを約束したので、天皇は赦免したという。その島は後の値嘉嶋であった。

仲哀天皇9年に、神功皇后は、新羅へ出征するために、磯鹿海人・草を偵察に遣わしたという。

応神天皇3年には、各地の海人が騷いて、命令に従わなかったため、阿曇連の先祖・大浜宿禰が遣わされて、その騒ぎを平定し、その功で海人の宰となったという。また神功皇后新羅へ向かった際に、阿曇大浜と阿曇小浜の2人が従軍している。さらに、応神天皇期には海部が設置されたとされる。

履中天皇即位前年には、住吉仲皇子が、仁徳天皇の皇太子である去来穂別皇子に反乱を起こした際に、阿曇浜子が淡路の能嶋の海人を率いて仲皇子側に付いている。その後、浜子は捕らえられ、「浜子の罪は死刑に値するが、恩を与えて、死を免じて「墨(ひたいにきざむつみ)」を与える」として、その日のうちに目の下に入れ墨を入れられた。これにより、入れ墨をした目のことを「阿曇目」と呼ぶようになったという。

推古天皇31年には、阿曇連(欠名)が新羅から賄賂をもらい、蘇我馬子に新羅に派兵するように促したという。また、翌年には同一人物と見られる阿曇連(欠名)が法頭に任じられている。

阿曇比羅夫は、舒明天皇期に百済に使者として派遣されていたが、同天皇13年(641年)の天皇の崩御に際し、翌年に百済の弔使を伴って帰国した。またこのとき百済の王子である翹岐を自分の邸宅に迎えている。斉明天皇7年(661年)には百済救援軍の将軍となり、百済に渡っている。翌662年には、日本へ渡来した百済の王子豊璋に王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子と共に百済に渡った。大錦中に任じられた。天智天皇2年(663年)8月に、白村江の戦いで戦死したという。

律令制の下で、宮内省に属する内膳司天皇の食事の調理を司る)の長官(相当官位は正六位上)を務めている。
安曇氏の分布

播磨国風土記』によれば、阿曇百足は難波の浦に住んでおり、のちに揖保郡に移住したという。百足が難波で住んでいたのは、平安時代東大寺領安曇江荘があった現在の大阪市西成区堀江地区であり、『日本書紀』に見え、後に安曇氏が氏寺とした「阿曇寺」は、大阪市中央区安堂寺町にあったと考えられている。このことから、安曇氏は摂津国西成郡をも拠点としていたことがわかる[4]

また、『日本書紀」履中即位前紀によれば、阿曇浜子は淡路島の「野嶋之海人」を統率していたとされ、安曇氏は淡路島にも拠点を持っていたことを示唆している[4]

他には、隠岐国備中国周防国阿波国伊予国から安曇氏あるいは安曇部によって海産物が貢納されており、安曇氏は海人集団として西日本を中心に分布していたことがわかる[4]
安曇氏と信濃

安曇氏は、海辺に限らず、川を遡って内陸部の安曇野にも名を残し、標高3190mの奥穂高岳山頂に嶺宮のある穂高神社はこの地の阿曇氏が祖神を祀った古社で、中殿(主祭神)に「穂高見命」、左殿に「綿津見命」など海神を祀っている。内陸にあるにもかかわらず例大祭(御船神事)は大きな船形の山車が登場する。志賀島から全国に散った後の一族の一部は、この信濃国安曇郡長野県安曇野市)に定住したとされる。
従来の研究

信濃国に安曇氏が居住するようになった理由について、大場磐雄は日本海沿岸で出土した銅戈、銅剣、石戈、石剣の分布から、筑前国糟屋郡阿曇郷・志珂郷を拠点とした安曇氏が、越後国頸城郡から姫川沿いにヒスイを求めて遡上した結果、安曇野入りしたとした[4]佐藤雄一も、『釈日本紀』「阿曇連等所祭神」条『筑前国風土記』逸文の筑前国糟屋郡資珂嶋の地名起源譚、『先代旧事本紀』「神代本紀」の「筑紫斯香神」、『新抄格勅符抄』、「大同元年牒」の「阿曇神」、『住吉大社神代記』の「糟屋郡阿曇社」、『延喜式』「神名帳」筑前国糟屋郡条の「志加海神社」などの記述から、連姓を帯びる阿曇連の祀る神が筑前国糟屋郡に所在しているという奈良・平安時代を通して一貫している認識は、大化の改新以前に遡るものと考えられ、阿曇氏の拠点として筑前国糟屋郡志珂郷および隣接する阿曇郷周辺が考えられるとしている[6]


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