阿射加神社(あざかじんじゃ)は、三重県松阪市にある神社。同名神社として2社があり、いずれも伊勢国壹志郡の式内社(名神大社)論社。 『延喜式神名帳』に「阿射加神社三座」とあり、現在では三重県松阪市小阿坂町の阿射加神社と大阿坂町の同名神社がその論社とされている。両社は松阪の平野を見渡す阿坂山 承和2年(835年)12月14日、従五位下に列し(『続日本後紀』)、嘉祥3年(850年)10月7日従五位上に進み、斉衡2年(855年)正月21日名神に預かり、同25日に従四位下に進み(以上『文徳天皇実録』)、更に貞観元年(859年)正月27日従四位下に、同8年(866年)11月4日従三位に昇格(以上『日本三代実録』)、延喜の制では3座ともに名神大社に列するなど朝廷から厚く遇された。なお、『伊勢国神名帳』では「当国十一所」の2番目に「阿射賀太神」と記されている。 阿射加神社 現在の祭神は以下の3座である。 御巫清直の『伊勢式内神社?録』には、「三殿アリ。(中略)中ヲ龍天大明神ト称ス。(中略)其北ナルハ神明社、南ナルハ熊野社」と、幕末から明治初年にかけての実状を記している。
概要
祭神において天照大神を奉斎していた時に、垂仁天皇の使者である阿倍大稲彦命(あへのおおしねひこのみこと)が阿佐鹿悪神(あさかのあらぶるかみ)を平定したとあり、『倭姫命世記』には、「阿佐加之弥子(阿坂の峰)」に伊豆速布留神(いつはやふるのかみ)がいて通行の邪魔をするので、その心を和ませるために山上に神社を造営し、外宮祀官度会氏の祖である大若子命(おおわくごのみこと)に祈らせた、とあり、同書所引の一書にも、「阿佐賀山」に荒神(あらぶるかみ)がいて、倭姫命の「五十鈴川上之宮」(現内宮)への巡行を阻むので、かつて阿坂国(当地一帯の古称)[4]を平定した天日別命(あめのひわけのみこと)の子孫である大若子命に、その荒悪神(あらぶるかみ)を祀らせるとともに神社を建立した、とあり[5]、この「悪神」や「伊豆速布留神」や「荒神(荒悪神)」が当神社の祭神で、本来は当地一帯を領有する神であったが、後に水田耕作における水神信仰と結びついて、上述した「龍天明神」の俗称を得たものと見られている。一方、祭神が3座とされていることについては、出口延経が、当地は『古事記』に猿田彦神が溺れたと伝える伊勢国阿邪訶の地であり、その時に化生した猿田彦神の3つの御魂である底度久御魂(そこどくみたま)・都夫多都御魂(つぶたつみたま)・阿和佐久御魂(あわさくみたま)が当社祭神の3座であると唱え(『神名帳考証』)、本居宣長もこの説を襲って(『古事記伝』)以来、上述の「荒振る神」の様態と、「記紀」の天孫降臨段に記す猿田彦神のそれが重なり合うことから、当社祭神3座を猿田彦神の3つの御魂と見るのが有力な説となっており、現在の両阿射加神社も、祭神として猿田彦神・伊豆速布留神を掲げている。なお、古代の海士はワタツミ三神や住吉三神・宗像三女神に認められるように、「3」を聖数視しているので、当社祭神が猿田彦神の3つの御魂であるならば、本来当地の海士がその3つの御魂を奉斎していて、そこから『古事記』の伝承が生まれたと見ることもできる[6]。
神階
阿射加神社 (松阪市小阿坂町)
本殿
所在地三重県松阪市小阿坂町120
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度35分26.97秒 東経136度28分7.55秒 / 北緯34.5908250度 東経136.4687639度 / 34.5908250; 136.4687639 (阿射加神社(松阪市小阿坂町))
主祭神猿田彦大神
伊豆速布留神
竜天大神
社格等式内社(名神大3座)論社
旧村社
創建(伝)永禄年間(1558-70年)
本殿の様式切妻造妻入
例祭10月8日に近い日曜日
主な神事御火試・粥試神事・羯鼓踊り(1月14日)(摂社大若子神社)
地図
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祭神
猿田彦大神
伊豆速布留神
竜天大神