阿南惟幾
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阿南 惟幾
少将時代
生誕 (1887-02-21) 1887年2月21日
日本 東京市牛込区箪笥町
死没 (1945-08-15) 1945年8月15日(58歳没)
日本 東京都麹町区永田町
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1905年 - 1945年
最終階級 陸軍大将
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阿南 惟幾(あなみ これちか、1887年明治20年)2月21日 - 1945年昭和20年)8月15日)は、日本陸軍軍人陸軍大将正三位勲一等功三級1945年(昭和20年)4月に鈴木貫太郎内閣陸軍大臣に就任。大東亜戦争太平洋戦争)末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府で本土決戦への戦争継続を主張したが、昭和天皇聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、同年8月15日割腹自決。日本の内閣制度発足後、現職閣僚が自殺したのはこれが初であった。

侍従武官陸軍省兵務局長、人事局長、第109師団長陸軍次官第11軍司令官第2方面軍司令官陸軍航空総監部航空本部長、陸軍大臣を歴任。その人柄・人格には定評があり、昭和天皇からは信頼され[1]陸軍大学校同期の石原莞爾も認めるほどであった。また、最後の陸軍大臣と紹介されることが多いが、歴代最後の陸軍大臣は下村定幣原内閣[注 1]である。
経歴阿南惟幾(1934年)
誕生から軍人の道へ

大分県竹田市玉来出身であった父の阿南尚と母豊子の間の8人兄弟の末っ子として生まれた。父尚は警察巡査として西南戦争抜刀隊として従軍後、内務官吏として転勤を繰り返したため、阿南も幼少時は東京府、大分県竹田市、徳島県徳島市などを転々としながら育った[2]。本籍は竹田市に置かれている。父尚は阿南に剣道弓道馬術など武術を小さい頃から教え込み、中でも剣道が好きであった阿南は小柄な体格ながらかなりの腕前になっていた[3]

父尚が徳島県の参事官に就任したため、阿南は徳島中学校に入学した。当時、四国善通寺を本拠地とする第11師団の師団長乃木希典陸軍中将と父尚は知り合いであり、ある日、乃木を来賓に招いての剣道大会が開催され、阿南が小柄な体格ながら、旺盛な気迫で上級生相手に敢闘しているのを見て、乃木は上機嫌で父尚に対して「元気があっていい少年だ」と褒めている。そこで父尚が、阿南が前から軍人志望で、陸軍幼年学校を受験したいと思っているが、小柄なので躊躇しているという話をすると、乃木は「幼年学校は規則正しい生活をさせるし、運動で鍛え上げるからすぐに身体は大きくなる。なるべく早く入学させる方がいい」と早期の受験をすすめている。阿南は乃木の話を父尚から聞くと、小柄なので軍人の道は難しいと心配していたのに、乃木という強い援軍を得て、この年の受験を決意した。乃木は日清戦争で歩兵第1旅団を率いて要衝旅順を攻略し武名をとどろかせていたことや、軍規や武士道を体現した生活態度と明治天皇からの厚い信頼で国民から敬愛されており、このときの乃木の姿が今後の阿南の軍人人生の範となった[4]

1900年(明治33年)9月阿南は広島陸軍地方幼年学校に入校。同期生にはのちに陸軍大将になる山下奉文岡部直三郎山脇正隆がおり、大阪陸軍地方幼年学校に入校した藤江恵輔も含めて、この年次は優秀と言われることになった[5]。阿南は中央幼年学校を経て、陸軍士官学校18期)に入校したが、同期で一番小柄だった体格も規則正しい生活と鍛錬で大きくなっており、身長は当時としては長身の1m70cmに達していた[6][7]。士官学校在学中に阿南は何度か乃木を訪ね、乃木のかつての武勇伝を熱心に聞いて、夫人の作る稗飯をご馳走になり、ますます乃木への憧れが強まっていった[8]。このときの乃木は長年の休職を経て、留守近衛師団長となっており、1904年(明治37年)に開戦した日露戦争に従軍できないことを悔やんでいたが、のちに第3軍司令官として旅順攻囲戦を指揮し、さらに武名を高めて国民的な人気を博した。1906年(明治39年)1月14日に行われた乃木の凱旋行進を、阿南は一般国民に交じり街道に並んで見送っている[9]

1905年(明治38年)陸軍士官学校18期[10])920名中を第24席の成績で卒業し、1906年(明治39年)に希望していた歩兵第1連隊に配属された。この頃父尚は教科書疑獄事件に巻き込まれて参事官を休職になっており、阿南一家は東京に戻ってきていた。兄の惟一は頭脳明晰で東京帝大を卒業後は外務省に入省していたが、自由奔放な性格で厳格な父尚や阿南とは性格が合わなかった。惟一は放蕩な生活で借金を重ねて、性格が合わなくて毛嫌いしていた父尚に支援を要請、父尚は既に退官して恩給生活であったため、故郷大分の田畑を処分してどうにか惟一の債務を肩代わりした。阿南は兄惟一のせいで生活に困窮する両親のため、給料の全額を実家に仕送り続けた[11]

1912年(明治45年)阿南は陸軍大学校への進学を目指した。陸軍士官学校同期で親しかった山下、甘粕重太郎中島鉄蔵も一緒に受験したが、1度目は全員不合格であった。しかし、再度の受験で山下らが次々と合格していったのに、阿南は4度目の受験でようやく合格となった[12]。阿南が3度も不合格となったのは、頭脳が劣っていたのではなく、受験時には上官が受験の配慮から、自由時間の多い陸軍中央幼年学校の生徒監のポストにつけてくれたが、阿南はそれに甘えることはなく、生徒たちの指導に手を抜くことなかったので、結局は勉強時間が足りなくなったことと、慎重な性格から、作戦考査で攻撃重視の日本軍の伝統から、作戦が慎重すぎると評価され点数が低かったためとされる。合格したときには、阿南から指導を受けた教え子たちは歓声をあげて喜び、阿南のために祝賀会まで開いている[13]。 1918年(大正7年)に陸大(30期)を卒業し、卒業時の席次は60人中18番と中の上であったが、4度の受験でようやく合格したという話があまりに有名になったので、阿南は「成績の悪い男」というレッテルを貼られてしまうことになった。後年になって阿南自身も「私は学校の成績は悪かった」と自称するようになっている[14]

1916年大正5年)、陸軍大学校在校中に阿南は竹下平作陸軍中将二女の綾子と結婚している。竹下は阿南の歩兵第1旅団時代の上官であり、幼年学校受験準備中の竹下の長男宣彦の家庭教師を引き受けるなど親しい間柄であり、綾子ともその頃からの顔なじみで、見合いする必要もなく縁談はまとまった。結婚したときの年齢は阿南が29歳、綾子が17歳であった[15]。のちに次男の竹下正彦も陸軍軍人となって、義兄となった阿南と深く関わっていくこととなる。阿南は綾子を大事にして、演習などで出張すると旅先からよく手紙を送っている。中には、演習先で食べている野戦食の献立を図入で書いた手の込んだ手紙や、「演習の野に咲く萩を馬蹄にかけまいと」とわざわざ足下の花にまで気を使う阿南の優しさを書いた手紙もあった[14]。綾子は、阿南と陸軍士官学校の同期山下の妻である永山元彦陸軍少将の長女・久子と幼馴染みで仲良く、阿南と山下は家族ぐるみで親交を深めていった[15]
侍従武官侍従武官時代の阿南陸軍歩兵大佐銀色侍従武官飾緒を佩用している。

1929年(昭和4年)8月1日に侍従武官に就任、当時の侍従長鈴木貫太郎であった。阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかった。侍従武官として昭和天皇とも親交を深め、馬術が得意であった阿南は、昭和天皇から直々に馬術の指導を要請されて、同じく馬術が得意な河井彌八侍従次長などと昭和天皇と一緒に乗馬をすることもあったが、その際に昭和天皇から「埃をかぶったのではないか?」などと気をつかわれることがあったり[16]、昭和天皇が着用していた白いワイシャツを拝領したこともあった[17]。阿南は「世界一おやさしい君主に我々は仕えておるのだ」と改めて昭和天皇に対する敬愛の念が深まって、陛下の為に身命を賭すという意識が強まっていった[18]。昭和天皇の阿南への信頼も厚く[19]1930年(昭和5年)8月に阿南が大佐に昇進すると、尚も昭和天皇のそばにいる機会が多くなって[20]、阿南が上奏に行くと、昭和天皇は椅子を準備させて長時間に渡って話し込んだり[21]、阿南のことを親しげに「あなん」と呼ぶようになった[22]

1932年(昭和7年)1月8日、陸軍始観兵式の帰路、皇居桜田門の外、麹町区桜田町警視庁庁舎前に昭和天皇の車列が差し掛かったとき、馬車に対して奉拝者の線から沿道に飛び出した李奉昌手榴弾を投げつけた。このとき、阿南もこの車列のなかの陸軍武官用の自動車に乗って同行しており、爆発音に慌てて車列3両目の昭和天皇の馬車に駆け付けたが、昭和天皇は無事で胸をなでおろしている。李は2両目の一木喜徳郎宮内大臣の馬車を昭和天皇のものと誤認して手榴弾を投擲したが、手榴弾は左後輪付近に落ちて炸裂し、馬車の底部に親指大の2、3の穴を開け、破片で、騎乗随伴していた近衛騎兵1人が軽傷を負っただけであった(桜田門事件[18]

1933年(昭和8年)8月近衛歩兵第2連隊長に就任、五・一五事件の直後であったため、阿南は青年将校の精神教育に特に注力した。青年たちの考えを知ろうと、膝をつき合わせて語り合い、自宅に招いては手料理をご馳走した。阿南は若者と語り合うのが好きであったが、自分から説教じみた話しをするのではなく、若者の話をよく聞いて談笑した。五・一五事件については軍内でも「美挙」など前向きに評価する向きもあり、公判中に減刑嘆願書が全国から殺到するなど、決起した青年将校たちに同情的な世情であったが、阿南は「軍人勅諭」の「(軍人ハ)政治ニ拘ラス」と信条としており、五・一五事件には批判的であった[23]

1934年(昭和9年)8月に東京陸軍幼年学校長となった。当時、陸軍幼年学校長は閑職扱いされており、阿南のような陸大卒の大佐が行くようなポストとは見られていなかった。これで阿南の出世はこれまでと見る者が多かったが[13]、阿南の生徒監時代の熱血指導ぶりを知る元教え子たちや、阿南の部下思いの性格を知っている知人、友人らは「陸軍最高の人事だ」と褒め称えており、阿南自身も非常に大切な役目であると張り切っていた[24]。阿南は折に触れて生徒たちに訓話を聞かせた。その内容は「その日のことはその日に処理せよ」「自分の顔に責任を持て」「難しい問題から先に手を付けろ」などと平凡なものであったが、阿南の熱意もあって生徒の心に長く残るものとなった。生徒を引率して陸軍の演習を見学に行ったときは、昭和天皇の計らいで生徒は天皇の御座所のすぐ近くで見学することができた。昭和天皇は久々に拝謁した阿南に「元気そうだね。阿南なら立派な将校を育ててくれるものと信じているよ」と親しく話しかけて、生徒は恩賜の菓子を頂戴している[25]

1936年(昭和11年)2月26日二・二六事件が発生し、鈴木侍従長も襲撃され重傷を負った。軍や世間は五・一五事件のときと同様に叛乱軍将校たちに同情的であったので、その世情が生徒らに蔓延することを危惧した阿南は、生徒たちに軍規の尊厳性と軍人の天皇に対する絶対的服従を教え込むため、敢て自ら普段の温厚な人柄からは想像できないような厳しい口調で幼年学校生徒へ訓話している。「これは軍にとって、非常に悪いことだ」という言葉から始まり、怒りで顔を紅潮させた阿南は「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と叛乱将校を厳しく批判し、自らの信条である「(軍人ハ)政治ニ拘ラス」を説いている。


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