阿修羅・原
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「原進」はこの項目へ転送されています。「原晋」とは別人です。

阿修羅・原
Ashura Hara
プロフィール
リングネーム阿修羅・原
ファイティング・ハラ[1]
ミスター・フジ
原 進
本名原 進
ニックネーム流浪のヒットマン
野生のダンプガイ
身長183cm
体重125kg(全盛時)
誕生日 (1947-01-08) 1947年1月8日
死亡日 (2015-04-28) 2015年4月28日(68歳没)
出身地長崎県北高来郡森山町(現:諫早市[2]
スポーツ歴柔道
相撲
ラグビー
トレーナーアニマル浜口
デビュー1978年6月23日
引退1994年10月29日
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阿修羅・原(あしゅら・はら、本名:原 進 / はら すすむ、1947年1月8日 - 2015年4月28日[3])は、日本プロレスラー長崎県北高来郡森山町出身[2]ラグビー日本代表を経てプロレスに転向し、国際プロレス全日本プロレスで活躍していた。
来歴
ラガーマン時代

中学時代は柔道諫早農業高校では当初は相撲に打ち込んでいたが[2]、高校2年にラグビーに転向[4]。この時からラグビー選手として頭角を現した。高校卒業後に上京し東洋大学を経て、拠点を東京から一旦大阪に移して1969年に近畿日本鉄道(近鉄)に入社。近鉄では入社数年後に駅係員として勤務していた実績がある。また入社と同時に近鉄ラグビー部に所属した。

近鉄時代の1970年日本代表に選出され、同年3月22日の秩父宮ラグビー場におけるブリティッシュ・コロンビア州代表戦でNO8として初キャップを獲得した。

ところが1971年イングランド代表の来日テストマッチが9月24日に近鉄花園ラグビー場および同月28日、秩父宮ラグビー場においてそれぞれ組まれるにあたり、当時の日本代表監督だった大西鐡之祐が、スクラムの第一列の大型化を図らなければ勝負にならないと考え、182センチ、87キロ(当時)の体格を誇った原に対し、テストマッチが行われる2か月前となる7月、日本代表菅平合宿において、プロップへのコンバートを命じた。当時、プロップの経験がなかった原は大西から特にしぼられ、菅平合宿では肩は上がらず、腰は立たずという、肉体的に極限のところまで追い詰められる羽目になった[5]。そして迎えた同年9月の対イングランド戦。日本は二試合ともイングランドに敗戦したが、ともに接戦という好勝負を展開していた。その理由として、戦前は歯が立たないと見られていたスクラムで日本が予想以上に健闘したことが一因として挙げられ、これを契機に、上記のイングランド戦において2試合とも左プロップとして出場した原は、日本代表の不動のプロップ選手として確立していくことになった。

一方、原の所属した近鉄は1974年度、リコーの3連覇を阻み、5年ぶりに全国社会人ラグビーフットボール大会を制覇。続く日本選手権でも、早稲田大学を破り、こちらは7年ぶりとなる日本一を果たしたが、いずれの大会も、原が右プロップとして優勝に貢献した。

当時、近鉄と日本代表で原とともにプレーした坂田好弘も、原をこう評している。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}ものすごい突進力。タックラーを吹っ飛ばすというよりも、相撲のすくい投げみたいに、相手を次々と転がしてはどんどん前に進んでいく。何人も引きずって走ることもありましたね。ラグビーではないスポーツみたいでした—日本ラグビー激闘史、[6]

上記のイングランド戦以後、主として左プロップとしての他、右プロップ・NO8としてのものも合わせて1976年までに日本代表キャップ17[7][8]を獲得。当時としては世界規格と言われた恵まれた体格や強いスクラムとコンタクトを武器に日本を代表するラガーマンとして活躍した。1976年には日本人として史上初めて世界選抜メンバーに選出されている[9][2]

しかし、近鉄は上記の坂田や小笠原博、さらには今里良三といった日本代表でも共にプレーした選手たちが相次いで引退したこともあり、チームの弱体化が急速に進んだ。また近鉄は当時、ラグビー選手だからといって待遇が優遇されているわけでもなかった[10]上に、原自身も人事異動で駅係員から列車の乗務員となり、その教習も受けることとなり、先輩の指導車掌や指導運転士から数々の教習を受け、実際に列車の車掌や運転士として乗務したりするようになったため、それに反比例してラグビーの練習を行う時間も少なくなった[11]。こうしたことが契機となり、原はラグビー選手として引退し、翌1977年に近鉄を退社。退社後は野坂昭如が率いる草ラグビーチームでコーチを務めた[12]
プロレスラー時代
国際プロレス

近鉄退社直後の1977年11月29日、原は国際プロレス入団を表明し、再度拠点を東京に移した上でプロレスラーに転向[13]新日本プロレスも原の獲得を狙っていたが、同じくラグビー出身者であるグレート草津のスカウトで国際プロレスに参加した[12]覆面レスラーとして試験的に試合を行った後、1978年6月29日の「'78ビッグ・サマー・シリーズ」大阪府立体育館大会にて、寺西勇を相手に素顔で正式にデビュー[13]。同年7月3日に海外武者修行に出発[12]、修行先でのカナダカルガリースチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリング)ではファイティング・ハラ(Fighting Hara)を名乗り、2戦目にノーマン・フレデリック・チャールズ3世から英連邦ジュニアヘビー級王座を獲得(スケジュールの関係で即返上)[14]ビッグ・ダディ・リッターブレット・ハートとも対戦した[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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