阿保親王
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阿保親王
阿保親王・『前賢故実』より
時代平安時代初期
生誕延暦11年(792年
薨去承和9年10月22日842年12月1日
墓所摂津国菟原郡精道村?
官位三品弾正尹、贈一品
父母父:平城天皇、母:葛井藤子
兄弟阿保親王、高岳親王巨勢親王、上毛野内親王、石上内親王、大原内親王、叡奴内親王
伊都内親王
子兼見王、在原仲平、在原行平在原守平在原業平、行慶、源弘
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阿保親王(あぼしんのう)は、平城天皇の第一皇子[1]在原行平在原業平の父。
経歴阿保親王墓兵庫県芦屋市)ただし考古学的には古墳時代前期(4世紀代)の古墳とされる。

大同4年(809年)に四品に叙せられたが、翌弘仁元年(810年)に発生した薬子の変出家した父の平城上皇皇太子廃された弟の高岳親王連座して、大宰権帥左遷された。

弘仁15年(824年)平城上皇の崩御後、叔父の嵯峨天皇によってようやく入京を許された。

天長3年(826年)子息の行平・業平等に在原朝臣姓が賜与され、臣籍降下させている。翌天長4年(827年上総太守に任ぜられた。天長10年(833年仁明天皇即位後まもなく三品に叙せられると、仁明朝では上野太守治部卿兵部卿弾正尹等を歴任した。

承和9年(842年橘逸勢らから東宮恒貞親王の身上について策謀を持ちかけられるが、阿保親王は与せずに逸勢の従姉妹でもあった皇太后橘嘉智子に密書にて報告し、判断を委ねた(承和の変)。[2]

変の3ヶ月後の10月22日に急死した。享年51。最終官位は弾正尹三品。葬儀に際し、承和の変で反乱を未然に防いだ功績を評され一品の品位を追贈された[3]。死因は明らかとなっていない。[4]
人物阿保親王を祭神とする阿保神社

性格は謙譲で控え目であった。文武の才を兼ね備えており、腕力が強い一方で、絃歌(弦楽器を演奏しながら歌うこと)に優れていたという[3]

大阪府松原市には阿保親王に由来する阿保(あお)という地名があり、阿保親王を祭神とする阿保神社がある。
官歴

大同4年(809年) 9月15日:四品

弘仁元年(810年) 9月19日:大宰権帥

天長4年(827年) 6月9日:上総太守

天長10年(833年) 3月6日:三品

承和元年(834年) 2月5日:治部卿


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